国籍法改正問題について、ある方の質問に応えて送ったメール(一部改変)

 わたしも、「ネット右翼の主張は、要は、理論を装ったゼノフォビアではないのか?」との意見に同意します。とりわけ、ネオリベラリスティックな法制度−−過度の重罰化、監視社会化、メーガン法、その他−−を導入することの口実として、もともと女性や子どもの権利について何の関心も抱いてこなかったような人たちによって、「女性への暴力」「子どもの虐待」が持ち出される、という傾向が日本でも米国でも強いですが、その内実は多様性に対する単なる拒絶反応でしかないと思います。
 新党日本田中康夫さんの懸念は、およそ非現実的な、「もしかしたら将来のある時点において起きるかもしれない子どもの権利侵害」を口実に、いま既に起きていて違憲判決までもが出ている権利侵害の解消を後回しにしようというものです。国籍法が通ったからといって人身売買が増えるとは考えにくいですし、いずれにしても、おっしゃる通り人身売買や子どもの虐待の取り締まりは別の法律で行なうべきです。
 また、田中さんの議論は、子どもの性虐待を「一部の性的異常者によって、無関係の子どもが犠牲になる」という前提で語っているように思うのですが、実際には子どもの性虐待の大半は「特に小児性愛者でもない、家族や教師など身近な大人によって」引き起こされます。わたしたちの周囲にいるごく普通の人たちが子どもを虐待しているという事実を忘却し、一部の特殊な異常性愛者だけが危険であるかのような言い方は、現実の脅威から目を逸らすものでしかありません。
 そもそも、田中さんは「小児性愛ペドフィリア」と、小児性愛者による子どもの性的搾取を区別していません。たとえばかれは、「“小児性愛黙認法”と呼び得る危険性を孕んでいる」と言いますが、小児性愛という性的指向性的嗜好(この区別は恣意的なものです)は同性愛や異性愛と同じように、本人の意志とは関係なくただわたしたちを「訪れる」感覚でしかありません。小児性愛者がその感覚のままに子どもを相手とした性行為に及べば犯罪ですが、小児性愛ペドフィリアを指向すること自体を危険視し「黙認すべきでない」という態度を取るのは、「ノーマル」な性癖を特権化することになり、政治家として不適切です。
 さらに言うと、小児性愛者をそのように扱うことは、小児性愛者が「現実社会のルールの内側にとどまり、メディアやロールプレイによって性的欲求に折り合いをつける」試行錯誤を困難にするので、かれらによる犯罪を助長するとすらわたしは考えています。かれらに社会のルールに従って生きるよう要求するなら、子どもに手を出さない限り最大限かれらが生きやすいような社会にしなければ説得力がありません。
 その他の「懸念」(国を乗っ取られる、など)については、もう荒唐無稽で反論する気も起きません。でもわたしはそれらの主張よりも、田中さんが「子どもを守るため」という大義名分を、おそらくはただ単に自分がネット右翼の圧力に屈することの言い訳として持ち出したことがとても嘆かわしいと思います。そんなことでは、到底ネオリベラリズムの増長に対抗できないでしょう。
 DNA鑑定をすることについて言えば、日本人のカップルが「この子はうちの子です」と言えば偽装認知ができてしまうわけで、一方の親が外国人だった場合だけDNA鑑定によって日本人の子どもかどうか証明する義務を課すのは普通に考えておかしいですし、そもそも「偽装認知を阻止する」という目的に手段が合致していません。両方とも日本人なら信用できるけれど、片方が外国人なら疑ってかかるべきだというのは、まったく訳が分からない話です。
 どうしてもDNA鑑定するというのであれば、全員の鑑定をするのが筋ですが、そうすると困った問題が起きます。それは、現実に子どもを認知している父親のうちかなりの割合で、生物学的な父親が別人であることが発覚すると思われることです。もし認知にDNA鑑定が必須なんてことになると、日本の家族のあり方がかなり大きく揺さぶられるでしょう。現行法では、認知によって親子関係が確定することになっていて、DNA鑑定は不要であるばかりか、後にDNA鑑定が行なわれて血の繋がりがないことが明らかになっても認知は取り消せないはずです。そしてそれを前提に、さまざまな権利関係が現実に生じ、生きられているわけで、そこまで一気に変更できるとは到底思えません。大混乱になりますからね。というわけで、もし結局DNA鑑定をするなら「親が外国人の場合だけ」という点は動きそうにありません。
 わたしは、法案を通すための妥協としてなら、早期妥結のための手段として条件によってはDNA鑑定必須要項は受け入れ可能だと思います。でもそれが差別であるということは言い続ける必要があると思いますし、田中さんごときに脅されていては民主党のこの先が思いやられます。かれの発言については、政治の場では妥協できても、思想的にとても認められません。