排外的ナショナリズムに奉仕させられるクィア

 クィアスタディーズリスト QSTUDY-L 経由で The New York Times 記事「A Candid Dutch Film May Be Too Scary for Immigrants」を読む。オランダ政府が移民希望者向けに作成した案内ビデオについて。ビデオでは、オランダ社会のリベラルな価値観の例としてヌードビーチでトップレスになる女性の描写とともに、結婚する権利を含め同性愛者が異性愛者と同等の権利を与えられていることが説明されており、二人の男性がキスするシーンも含まれているとか。
 このビデオが国内の保守派から非難を受けているというならよくある話だけれど、面白いことに移民の権利を主張する団体側から批判が出ている。すなわち、最近暴動やコミックへの抗議運動などを通してヨーロッパで注目を集めているイスラム世界からの移民が今以上にオランダ社会で増えないために、意図的にイスラム教徒を刺激する内容にしているのではないかという批判だ。
 ジェンダー関連の領域を学ぶ者にとって、近代ヨーロッパにおいて異性愛中心主義が植民地主義を正当化するレトリック(野蛮な性慣習を持つ他民族をキリスト教的価値観によって教化することが文明国の責務である)として、また性役割分担を通して近代化と国民国家化を押し進める装置として機能してきたことは常識だ。けれど、批判が正しいとすると、現在では性的な解放・女性の自由・同性愛者の権利といったリベラルな価値観がネーション保持のために倒錯的に利用されていることになる。
 なにが起きたのか? それを説明するのはこんな所(失礼)で書ききれる話じゃないのでキチっと論文にしなくちゃいけないのだけれど、(白人、非ムスリムの)クィアが市民として登録されつつあるのかな、という直感はする。クィアはネーションを脅かす存在だったはずなのに、いつの間にかネーションに飲み込まれてそれを保持するための排外的なツールの一部としてネーションに奉仕してしまっているみたいな。もちろん、本当に市民であればそんな扱い方をされないはずで、中途半端なところに宙づりにされているわけだけど。
 そうは言っても、同性愛者の権利を認めろというのは「わたしたち」がずっと言ってきたことだし、移民が来るなら同性愛者を好きになれとは言わないけれど、少なくとも同性愛者に異性愛者と同等の権利を認めてくれる人でないと困る。同性愛者の権利を認めない人もどうぞ来てくださいと言うわけにもいかないし。
 これが「我が国はキリスト教的価値観を国柄とする国です」という内容なら、文化多様主義の立場から容易く批判できる。でも、その文化多様主義ーーここでは同性愛容認や性的寛容も含めてーーそのものが「国柄」として提示されたとき、それを批判するのは難しい。でも、そうした「国柄」が排外的に政治利用されることを(あるいはそのように作用することを)おおっぴらに認めるわけにもいかない。
 この問題を突き詰めるのは、先に書いたようにこの場では到底不可能だけれど、以前のエントリと共通した認識として、「わたしたち」フェミニズムクィアの運動が求めたものの先にシニカルなものが生み出されることについては考えておいた方が良さそう。