医療としての「成長停止」「生殖器摘出」とその倫理
先月の Archives of Pediatrics and Adolescent Medicine に紹介されたケース。一般メディアではロイター通信が記事にしている。
舞台はワシントン大学病院。患者は生まれつき赤ちゃん並みの知能以上に発達しない障害を持って生まれた6歳の女の子。現時点では両親が彼女を家で育てているけれども、この先彼女が身体的に大きく成長すると親の手には負えなくなり、第三者の介護に依存するなり施設に預けるなりしなければいけなくなるおそれがある。
そうした懸念を解消するためとして、家族と相談のうえで医者は彼女に大量のエストロジェンを一時的に与えることで擬似的に第二次性徴期を通過させ、現在の体格以上に彼女が成長しないようにした。同時に子宮摘出も行なわれた。
両親は彼女をとても大切にしているとのことで、だからこそ施設や他人の手を借りずに自分たちで一生世話をしたい、そのためには彼女が年齢相応に大きく育ってしまっては難しいということは、理解できなくもない。女の子にとっても、施設に入れられたりするよりは愛情ある家庭で家族に介護されるほうが幸せなのかもしれないという気もする。それでもやっぱり、彼女の正常な成長を医学的に停止し、正常な生殖機能を奪うことに、医者が介在することには大きな疑問を感じる。
Archives of Pediatrics and Adolescent Medicine の同じ号に掲載された別の論文では、身長の伸びが早すぎる女の子たちを対象に、エストロジェンを一時的に大量摂取させることで成長を停止するという「治療」がかつては広く行なわれていたことが紹介されている。それによると、当時は身長が高すぎる女性は男性の結婚相手としてふさわしくないと思われていたために、結婚できなくなることを恐れてそうした「治療」がほどこされていたという。しかし過去数十年のあいだにそうした療法は減少の一途をたどり、いまではほとんど行なわれていない。これはもちろん、社会における女性の地位の変化と無関係ではないはず。
身長が高いというだけで成長を停止することが許されないならば、発達障害があるというだけで成長と生殖機能を停止することだって許されないと思いたい。けれども、前者についてであれば社会が身長の高い女性に寛容になれば良いと言えるのだけれども、後者について社会がこう変化すれば問題が解決するという風には単純には言えない。「施設に預けることなく、自宅で十分な介護ができるような社会的支援を充実させよう」とは言えるけれども、親に向かって「親だけで世話しようなんて思わないで、第三者の支援を受け入れなさい」とは言えないように思うもの。本人の幸せを害しているとも言い辛いし。
そのあたり、現実に行なわれた「治療」に直感的な不信感と不快感を抱えつつ、でもどういう倫理を持ち出して反対できるのか、ちょっと考えさせられる。
ちょっと関連しているけれど、これは昨日のニュース。ミネアポリスの地方紙 Star-Tribune によると、ミネソタ大学病院の医師が7歳の女の子から正常な状態の卵巣を摘出したとして処分を受けたという話。この患者は生まれつき子宮がないなど性発達障害(DSD、インターセックス)の可能性があるとされており、性腺(精巣や卵巣などの総称)にも異常があると誤認した医者が精密検査もせずに摘出してしまったらしい。
今回この医師が処分を受けたのは、たまたまこの患者が「性発達障害だけれども、性腺は正常」だったからであり、もし性腺に少しでも異常があれば(摘出の必要性がどうであれ)問題とされることはなかったはず。というのも、この医者が精密検査すらせずに摘出を決めたのは、かれが特別に怠慢だったからではなく、性発達障害のケースにおいてそのように簡単にあれこれ摘出するのが常態だから。つまり、みんなが赤信号を渡っていたら彼だけ偶然車に跳ねられたみたいなもの。
そもそも、どの州でも不必要に未成年の生殖機能を停止させることは禁止されているはずで、どうして知能や性器に発達障害があればそれが許されるのか全く不明。今回の件が処分の対象となるのであれば、性発達障害の「治療」として同様に生殖機能を不必要に奪うケースについても告発していって欲しいのだけれど。