「いかなる理由があっても差別してはならない」というトートロジー

 二日前、牧波昆布郎さんのエントリへのコメントをした際、めんどうなことになりそうだから(狭い範囲でヒートアップしてるしぃ)飛ばした論点なんだけど、売買春そのものについてはわたしと近い考えを持っていそうな yuki さんの売春者に対する「職業差別」の議論を読んで、やっぱりちょっとだけ口を出したくなった。
 気になった発言というのは、こういうもの。

「いや、職業差別はダメだ。ガードマンやゴミ処理の人を俺は差別しない。だが、売春婦は別だ」あるいはこう言うかもしれない。どうして売春婦は別なのだと問えば「性を商品化しているから」「売春は犯罪だから」とかおそらく言い出すのだろう。理由があれば差別はOKだという恐ろしい発想。まさにこれこそが差別の核心である。

近年は「肌の色を理由に」差別してはいけないということになり「生まれた土地を理由に」差別してはいけないということになった。どうにもならないことだから。しかし、この二十一世紀においてもまだ「自分で選択したことだから」という「理由」で、娼婦は差別してもいいと思っている人たちがいる。貧困のための売春とそうではない売春を別個のものとし、後者は差別してもいいとか、とにかく理由さえあれば、正当化できると勘違いしている人が多い。

たとえばこのように『性道徳に反し、風俗を乱す』だの『社会秩序を乱す』だの、そういう理由で差別してもいいと思っている人たち。『いい印象は持てない』からなんだ?とそれを掘り下げていけば「差別されても仕方がない」という結論が導き出されるのだろう。

レイシストとは、理由さえあれば差別をしていいと考える人たちだ。本来は、いかなる理由があろうとしてはならないのが差別なのに。そもそも理由のない差別などないのだから。

 こういう記述を読むと、ちょっとどうかなぁと思う。
 「いかなる理由があろうとしてはならないのが差別」と言うけれども、この議論ではある行為(この場合は、売春者を侮辱すること)が「差別にあたるのかどうか」が論点となっているのであり、「理由があれば差別しても良いのかどうか」なんて誰も論じていない。というより、妥当な理由があるとした場合、それは定義上「差別」とは呼ばないのね。だからこそ、yuki さんが反論しているコメントの書き手はみんな「これは差別の問題として語るべきではない」と言っているわけです。
 この点、まさかとは思うけど分からない人がいると困るから、きちんと説明しとこう。まず yuki さんは、「いかなり理由があろうと差別をしてはならない」ということを大原則として提示しているけど、それを言い換えれば、差別を正当化できるような「妥当な理由」はありえないということ。さらにそれを逆転させれば、ある行為に妥当な理由が存在するのであれば、その行為を「差別」と呼ぶことは大原則に反するから間違いということになる。だから、「yukiさんの言うそれは『差別』ではない」という人はいても、「理由があれば差別しても良い」と言う人はいないわけ。
 yukiさんは、「そもそも理由のない差別などない」、つまり、差別者は常に理由を持ち出して差別を正当化するものだから、差別者が理由を提示したからといって差別でないことにはならない、と言っている。それは確かにその通りで、だからこそ提示された理由が合理性や社会的公正の見地から見て妥当であるかどうか議論の余地がある。そうした議論のコストを被差別者側が払わされるのは不公平だけれども、暴力的な革命を起こすのでもない限り、とりあえず議論しか手段がない。それなのに、あらかじめある行為が差別と決めつけた上で「どんな理由があっても」認めない、などと言ってしまうのでは、議論のしようがない。
 実際、「こういう理由があるから」差別ではない、と主張する批判者に対して、yuki さんは「理由があれば差別しても良いというのはおかしい、差別主義者だ」と反発するばかりで、それらの理由が不当であるという論理をほとんど述べていない。それは確かに、「どんな理由があってもいけない」と言う以上は一貫した立場だとは思う(どんな理由があってもいけないのであれば、個別の理由に反論などしたらそれこそおかしい)。でも、そのおかげでどうしようもない中傷合戦にしかなっていないように思う。
 これじゃ、困るんだけどなぁ。


 差別問題一般についてや、「差別」「差別的」「蔑視」「偏見」などのクリアな概念整理は、本家でいつか書かないとね。差別はどう定義すると利得があるのかとか、蔑視による差別と偏見による差別ではどちらが深刻かとか、そういう話。