カムアウトをしない「自由」はない。クロゼットは「権利」ではない。

 イチカワユウさんの、「カムアウトするかしないかは個人の自由である」というエントリにコメント。

アメリカのアクティビストたちは、カムアウトしろしろというけど、そりゃあんたがアメリカにいるから出来るわけであって、日本では本当に特殊な人…学者とか学者とかゲイ雑誌の編集者とかゲイバーの経営者とか美容師とかアーティストとかフリーランスとか外資系じゃないとなかなかカムアウトしてアクティビストになるのは難しいんだよ…!と叫びたかった。もちろん、日本でもごく普通の社会人や学生でカムアウトしている人はいる。でも、それはまだ少数であり、やはりまだカムアウトして常にオープンなゲイとして生きることは難しいのは事実だと思う。
ですから、人はいつ、誰に、どうやってカムアウトするかを自分で決めるべきですし、誰からもカムアウトを強制されるべきではありません。カムアウトしても、養ってくれるゲイリブ団体があるわけでもなし。人が自分の生活と環境を守るために、カムアウトに対して慎重になるのは、非常に理解できることであり、またその慎重さは尊重されるべきです。
自分が安全に感じる時に、安全に感じる範囲で、納得してアウトにすればいい。他人のセクシャリティを本人の同意なしに明かしてしまうアウティングなどはもってのほかです。
そのようにアウトになるかならないか、そしてその範囲などは全て個人が自由に決定できるべきである、というのを前提にした上で、私は個人的には「親しい誰かに個人的な話をすること」がゲイリブにおいてもっとも効果的な戦略の一つであると信じるのです。
カムアウトするかしないかは個人の自由である

 ユウさんが言っている内容のほぼ全体には賛成。でも少しだけひっかかりを感じる。
 カムアウトをするべきかどうか、あるいはカムアウトするとしたらどういうタイミングでするかは、本人の判断に任されているべきである。それはまったくそう。勝手に「あの人は〜だ」とアウティングしてしまうのは、良いか悪いかと言えば悪いことだろう。
 でもそのアウティングについて、レズビアンの小説家で活動家のサラ・シュルマンは、1990年にThe Village Voiceに掲載した短い文章「Outing: The Closet Is Not A Right(アウティングについて−−クロゼットは権利ではない)」で、次のように書いている(超意訳)。

同性愛者の有名人を無理矢理クロゼットから引きずり出すことが道義的にどうであるかについては、わたしはよく分からない。しかしわたしが分かるのは、そうした行為を「プライバシーの侵害」と呼ぶことは、歪曲であり不誠実だということだ。ほとんどのゲイたちは、職を、住居を、安全を、家族の愛を失わないために、クロゼットの中に収まり続けている。罰を恐れて自分の生き方を隠さなければいけないことは「権利」ではないし、「プライバシー」でもない。(中略)クロゼットは「権利」ではない。それはわたしたちが不要にしようとしているもので、しがみつくものではない。
Sarah Schulman "My American History" 198ページ

 カムアウトをしないという本人の意志を尊重すべきだ、というのはその通りだと思うけれども、本当に本人の意志を損ねているのは、カムアウトを呼びかける活動家ではなく、自分が何を感じどう生きているのか、生きたいのかを、隠さざるをえないような状況にしている、強制異性愛社会の側だろう。「人にはそれぞれ事情があるのにカムアウトするべきだという考えを押し付けるのはおかしい!」という人もいるけれども、そうした事情を生み出している社会のあり方の方がずっとおかしいとわたしは思う。