ポリティカルコレクトネスという「非政治」

 「ブクマコメント回答1:トランスセクシュアルの人に対する表記」に対して、id:wiseler さんからお返事いただきました。

つまりmacskaさんの主張は、トランスセクシャルの方について英語で表現するときは、書き手が報道機関ではない個人であったとしても、trans-sexualやs/heという表現を絶対に使うな、ということですか? 書き手の信条とも関係なくですか?
トランスセクシャル関係の表記の問題について - wiseler : WAR IS PEACE

 それはわたしの主張とは正反対です。
 わたしの主張は、trans-sexual とか s/he とかいう表現は「書き手の信条」を表明するものであるから、wiseler さんのブクマコメントのように「一箇所間違えて書いただけじゃん」と非政治的に解釈するべきではない、というものです。
 これは、いわゆるポリティカルコレクトネス(「政治的な正しさ」)とはまったく逆の考え方です。ポリティカルコレクトネスは、言葉遣いのルールを強いることによって、各個人がどういう表現を選ぶかという政治的選択から人々を免除します。わたしが望むのは、ポリティカルコレクトネスという非政治化とは反対の方向の、表現の政治です。「悪意はなかったのだから」「たまたま間違えただけではないか」というのも、ポリティカルコレクトネスと裏返し(=政治的に正しい表現のルールを知らなかっただけではないか)の非政治化であると思います。

私も英語でs/heと書く機会がありますので、できれば、そこまでして相手の望む性別を代名詞として利用しなければならない理由を教えていただきたいです。

 わたしは、原則として本人の望む呼び方で呼ぶべきであるという「信条」を持っていますが、仮にそれに同意できない人でも、少なくとも「本人の望まない呼び方では呼ぶべきではない」という、それよりもう少し強い「信条」も持っています。それは、公共的な礼儀 public courtesy であると思うからです。
 礼儀というのは、強要できるものではありません。わたしが「おはよう」と声をかけても、相手がわたしに返事をするとは限らないのとおなじです。しかしあえて礼儀を無視してまで「書き手の信条」を優先するということであるなら、それは政治的行為として解釈されるべきであり、そうした政治的行為は評論の対象となります。
 わたしは、山形さんが「政治的に正しい」ルールに従わないことを批判しているのではなく、山形さんの表現が「書き手の信条」を表明するものであると受け取り、その「信条」を批判しているのです。「一箇所間違えて書いただけじゃないか」みたいな言い方こそが、山形さんの表現に含まれた「書き手の信条」を無視し非政治化する、書き手に失礼な行為であると思うのです。
 ていうか「相手の過去を持ち出して個人攻撃」って、わたしの書いたことのどこが個人攻撃なんだろう。裁判について、山形さんの言い分が正しいとまで書いているのに。

ポリティカルコレクトネスという「非政治」(2)

 上にあるやつの続編。 id:wiseler さんエントリ「トランスセクシャル関係の表記の問題について2」へのお返事。

(...) その「信条」を批判しているのですと「政治的に正しい」ルールに従わないことを批判しているのではなくの二文が同一にみえます。
トランスセクシャル関係の表記の問題について2 - wiseler : WAR IS PEACE

 なるほど、たしかに分かりにくいかもしれません。では、wiseler さんのもともとの疑問に直接応えることで、違いを説明したいと思います。
 wiseler さんは、最初のエントリにおいて次のような質問をしました。

つまりmacskaさんの主張は、トランスセクシャルの方について英語で表現するときは、書き手が報道機関ではない個人であったとしても、trans-sexualやs/heという表現を絶対に使うな、ということですか? 書き手の信条とも関係なくですか?
トランスセクシャル関係の表記の問題について - wiseler : WAR IS PEACE

 ポリティカルコレクトネスというのは、この質問に対して「そうだ、絶対に使うな」と答える−−もちろん現実には、もっと柔らかく言うでしょうが−−立場です。しかし、それは一見強硬な反差別主義に立っているようでいて、実はそうではないというのがわたしの考えです。
 上の質問に対するわたしの回答は、「trans-sexual や s/he という表現を使うなら、書き手の信条を込めて書け」というものです。特に理由がないのであればわざわざ trans-sexual や s/he という表現は避けるのが礼儀ですが、礼儀を無視してでも表現しなければならない信条があるのであれば、その政治的含意を引き受けろ、ということです。
 最も問題なのは、文体が不自然になるからとか、それを直すために文そのものを書き直すのが面倒だからという「もっともらしい、非政治的な理由」を付けて、その表現の持つ政治的含意から逃れようとする欺瞞です。そういう人は、自分の文体へのこだわりとか書き直しの面倒さと比べて、トランスセクシュアルの人の尊厳の方が軽いと判断しているわけですから、そうした判断を自覚して、やはりその政治的含意を引き受けるべきです。
 「そこまでして相手の望む性別を代名詞として利用しなければならない理由」は何か、との質問にも直接答えると、それが礼儀だからです。わたしはあなたの性別を知りませんが、おそらくあなたの性別を間違えて呼ぶ人はいないでしょう? もし間違えた人がいたら、すぐ訂正してもらえるでしょう? そうした経験自体、単なる笑い話の域を出ないもので、あなたの尊厳が大きく損なわれたり、沈黙を強いられたり、自殺を考えたりはしないでしょう? そうした「あたりまえの」ことが、トランスセクシュアルトランスジェンダーの人にとってはまったく「あたりまえ」ではありません。それが、シスジェンダーの特権というものです。

というのはmacskaさんの信条で、信条で信条を批判するのには賛成できない、と思ったのです。

 あなたがわたしの信条に賛成できない、というなら分かりますが、信条で信条を批判するのに賛成できない、というのは不可解です。信条で信条を批判することが、どうしていけないのでしょうか? 例えば「白人は黒人より偉い」とか「アメリカは世界を支配すべきだ」という信条の持ち主を、わたしは自分の信条によって批判してはいけないのでしょうか? ていうかそもそも、「賛成できない」というのは、あなたがあなたの信条によってわたしの信条を批判していることになるのでは?

日本において、裁判に訴えることのできない事というのは、それが存在しても、問題がないと周りから扱われても仕方がないことではないでしょうか。まあ、そのように変に考える私の様な人間もたまにいます。

 外山恒一さんは「選挙なんて多数派のお祭りに過ぎない」と言いましたが、それに習えば、裁判だって多数派が決めた法律によって行なわれる、多数派の価値観や利害の押しつけに他なりません。わたしの倫理的判断は、裁判に訴えることができるかどうかで左右されません。というより、司法制度そのもの−−および、それによって守られる日常の平穏−−に暴力性があると考えます。
 こう言うと、わたしはアナキスト無政府主義者)か何かで、司法制度そのものを否定しているのだ、と思われるかもしれませんが、実は正反対です。もし仮に世の中の不公平や不正義の全てを裁く裁判所なんてものがあったら−−実際にはそれは論理的に不可能なので、それを目指す裁判所、あるいはそれを自称する裁判所、ですが−−それこそ恐ろしい。なぜならそれは、山形浩生さんの表現を借りると、「ポル・ポトの変革でさえ甘く見える」ような完全なる全体主義国家を意味するからです。