「ジェンダーフリーは必然的に暴走する」という暴論

まいどお馴染みの Bruckner05 さんがの最新エントリ「ジェンダーフリーはジェンダーレスではない?」より:

ジェンダーフリージェンダーレスとは違う」というのが、成城トランスカレッジchiki氏やフェミニストmacska女史らの見解で、多くのジェンフリ支持派が同じことを言う。最近では「3・25『ジェンダー』概念を話し合うシンポで、和光大学の井上輝子氏が同じ発言をしている。
(略)
内閣府男女共同参画局もこれと全く同じ立場だ。


全部プロパガンダ、嘘、デタラメである。騙されてはいけない。

 それってなによー? chiki さんやわたしはジェンフリ支持派ではないのだけれどそれはともかく、ジェンフリについて少しでもちゃんと分かっている人はみんな「ジェンダーレスとは違う」と言っている。なのに、「全部プロパガンダ、嘘、デタラメである」とこの人は言い切っちゃうわけだ。すごいよねー。
 で、それがどうしてかというと、「ジェンダーフリージェンダーレスは繋がって」いて、「ジェンダーフリーは、論者が意図するしないにかかわらず、必然的にジェンダーレスへと暴走する」かららしい。 ここで Bruckner05 さんは gid.jp という団体が過去に掲載していた公式見解から引用している。

 「ジェンダーフリー」は、ジェンダーバイアスからのフリー(解放)であって、ジェンダーレス(性差の否定)とは違うという人がいます。しかし両者は、必ずしも別物ではありません。
 ジェンダーとは社会的・文化的・心理的性別を意味します。したがってジェンダーは、性別と無関係なものとされた時点で「ジェンダー」ではなくなります。
 別の言い方をすれば、「ジェンダーバイアスからのフリー」は、それをとことん追求すれば自動的に「ジェンダーレス」の追求になってしまうような構造になっているのです。「ジェンダーバイアスからのフリー」と「性差否定」とは、もともと連続しているもので、両者の間にはあらかじめ明確な境界線が存在しているわけではありません。
 したがって、ここで考えるべきことは、「ジェンダーバイアスからのフリー」という理念を一定の範囲で認めると同時に、それが「ジェンダーレス」へと暴走しないための条件を立てることなのです。

 しかし、繋がっているから、連続だからダメなんだというのは、かなりの暴論。Bruckner05 さんはジェンダーフリーの論理を徹底的に突き詰めれば全体主義的な意味での「ジェンダーレス」に繋がると言うけれど、そんなことはジェンダーフリーに限らずどんな理念についてだって言えるもの。「言論の自由」でも「環境保護」でも「愛国心」でも、それだけを極限まで突き詰めたら歪みが生じるに決まっている。もちろんだからといって、それらを追求することが間違いだということには必ずしもならない。要するに、ジェンダーフリーは大切かもしれないけれど、世の中には他にもいろいろと大切なことがあるわけだから、全体を見てバランスを取ればいいだけのこと。
 例えば、わたしにとって「性別によって生き方を押し付けられない」というのはそこそこ重要な価値観だけれど、同時に「信教の自由を守り、他者の信仰に敬意を払う」というのもわたしにとって重要な価値観だ。だから、一見ジェンダーフリーに反するような信条を掲げる宗教団体があっても、「あなたたちは間違った邪教だ、カルトだ」と一方的に断罪しようとは思わないのね(一方的に特定の宗教団体を断罪している某ジェンフリ論者がいるけれど、わたしが普段からその人を厳しく批判しているのはご存知の通り)。と同時に、相手が宗教だからといって何も意見を言ってはいけないとも思わない。さまざまな価値観のバランスを取ることが大切だと思っている。
 もし「行き過ぎたジェンダーフリー」というのがあるとしたら、それはつまりジェンダーフリーという1つの目標に固執するあまりに、社会にとって大切なほかの価値観を蔑ろにした施策やプログラムなんだとおもう。そういう例があるなら、具体的に挙げて批判していくというのは必要だとおもう。それは、間違った方向に進んだ「愛国心」や「環境運動」をチェックするのが必要だというのと同じレベルでね。でも、そういう例をちょっとだけみつけてきて「これだからジェンダーフリーは必然的に暴走するのだ」と言われても、その「必然性」を示したことにはならないのね。