非理想状況におけるリベラリズムの話へ繋げる前置き

 本家エントリ「北米社会哲学学会報告1/性的指向、ホモフォビアと、ディスオリエンテーションの可能性」への id:okemos さんのブクマコメントにコメント。

「社会的文脈」での批判はフェミやゲイ関連でよく目にしますが、その重要性は分かっても事実上無限にある社会的文脈全てに配慮するなど不可能な話で、しばしば批判のための批判でしかないように思えます。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://macska.org/article/232

 「しばしば」そういう批判があるというのは、まあ「しばしば」程度にならあると思う。でも、「事実上無限にある社会的文脈全てに配慮するなど不可能な話」であり、どういう文脈や要素を考慮に入れるかの決定は恣意的にならざるを得ないからといって、「文脈をまったく考慮しない」こともまた恣意的な決定であることから目を逸らせてはいけないと思う。
 では「批判のための批判」に陥らないように、何ができるのか。「どこに線を引いても恣意性からは逃れられないけれども、どこかに線を引かなければいけない」状況においては、特に重要そうだと主観的に感じられる要素を研究に「とりあえず」取り込まなくては、何もはじまらない。そのうえで、一旦線を引いたからといっておしまいにしてしまわず、引かれた線によって起きる弊害を訴える声に常に開かれていることが必要だ。
 それは、とりあえず「わたしは男性」「わたしはレズビアン」といったオリエンテーションを獲得した人が、そうした固定的なカテゴリを吹き飛ばすような出会いや経験によってもたらされるディスオリエンテーションに、常に開いていようと心がけることと同じだと思う。
 また、完璧な回答が存在しないのを理解したうえで、どこまで多様な社会的文脈に配慮するか、どこで線を引くかだって、ある研究を評価するうえでの基準となると思う。
 ここに書いた話は、リベラリズムの議論の関連で北米社会哲学学会報告の続きに微妙に関連してきます。


 ちなみに、クイズの正解は、クイズエントリのブクマコメントを見ればわかりますよん。