フェミフェミな音楽エッセイにツッコミいれてみる。

 日本フェミ業界が必死になってやっている、ウィメンズ・アクション・ネットワークのサイトの、音楽に関するリレー・エッセイと思われるコーナーに「黒人音楽と白人ミュージシャン、女性ベーシストCarol Kaye」という記事があった。著者は堀あきこさんという方で、調べたところ『欲望のコード マンガにみるセクシュアリティの男女差』という本を出したばかりの人のようだ。
 その中で、次のような記述がある。

黒人による黒人のための音楽が、白人層をも巻き込んで、世界に名をとどろかせるビッグ企業に成長。有名なシンガーの影となり、素晴らしい演奏でレーベルを支えた黒人バンド……
 それが、これまでのモータウンとThe Funk Brothersをめぐる定説だった。
 しかし、女性ベーシストCarol Kayeは、モータウンの演奏はThe Funk Brothersだけでなく、彼女のプレイが数多く含まれていたと告発。
 モータウンは、黒人企業・黒人ミュージシャンという特徴を前面に打ち出した。そのため、白人プレイヤー、レーベルの拠点(デトロイト)ではないLAのプレイヤー、そして、女性プレイヤーの存在を暗闇に追いやったのだ。
 彼女が演奏したという曲には、モータウンが誇るThe Supremesの多くの曲、例えば「Stop In The Name Of Love」「You Can't Hurry Love」、その他にもFour Tops「Reach Out I'll Be There」があげられている。
 彼女は告発によって、今も批判や侮辱を受けているという。「女にあんな演奏ができるはずがない」というバカげた前提に加えて、モータウンは黒人文化の中で生まれたものであり、白人ミュージシャンの手など借りていない、という「黒人のもの」というイメージを維持しようとする力によって、だ。
(略)
 女であり白人であるがゆえ、彼女が受けられなかった賞賛やリスペクト、彼女のミュージシャンとしての人生に及ぼした/及ばさなかった影響を考えると、なんともやるせない気持ちになる。
 そして、彼女がとった勇気ある告発に、胸が痛くなるのだ。
黒人音楽と白人ミュージシャン、女性ベーシストCarol Kaye

 この記述によれば、黒人コミュニティが一方的に白人女性であるCarol Kayeに不寛容みたいな話になっているけど、あまりに一方的。彼女の「告発」は広く知られていて、一部では大きな論争となっているのだけれど、事情を知らない読者が読んだら「そうだ、女性はこんなに差別されている」どころか、「黒人は白人に不寛容だ」という倒錯した印象も与えかねない、とんでもない記事だと思う。
 堀あきこさんが説明する通りCarol Kayeは、20世紀の音楽界に大きな貢献をした偉大なスタジオミュージシャンの一人として名前を残している。彼女が女性だからといって、そのことに異論を挟む人は誰もいない。多くの人が疑問視しているのは、The Funk Brothersのベーシスト、James Jamersonによる演奏によるものとされてきたモータウンの数々のヒット曲について、彼女が「ベースは自分の演奏だ」と主張していることだ。
 この問題について最も具体的な調査をしているのは、このJamersonの伝記を出版し、のちにその生涯と影響についてのドキュメンタリ映画を製作したDr. LicksことAllan Slutskyという人だ。かれは、Jamersonの伝記を書くための取材の中で、Jamersonの演奏とされている曲の一部がKayeのものであるという話を聞いて、彼女にインタビューをした。そして具体的な曲名を聞いて、かれは驚愕する。彼女の主張では、ヒット曲いくつかどころの話ではなく、Jamersonの偉大な業績の大半が実際には彼女のものであったというのだ。
 Slutskyは、もし彼女の主張が事実だと証明できるのであれば、Jamersonではなく彼女についての本を書くべきだと思い(衝撃的な著作として話題になっただろう)、裏付け調査をはじめる。ところが関係者にいくら取材をしても、Jamersonが実際に演奏したという証拠や証言ばかりが集まっていったようだ。たとえば、作曲者やプロデューサたちをはじめ、The Funk Brothersの他のメンバーや共演者たちも口を揃えてJamersonが演奏したという。共演者の中には、Kayeと共演したこともあるという人もいた(どちらも著名なベーシストだったのだから当然)が、彼女が挙げた特定の曲について「その曲を彼女と録音した」と証言する人はいなかった。Kaye自身が「この人なら事実を知っている」として挙げた共演者すら、彼女の言い分を肯定する証言はしなかったという。
 これだけなら、Kayeの主張とSlutskyの主張が食い違っている、というだけなのだけれど、Slutskyが「伝記著者として、Jamersonの名誉を守るため」という形でこうした調査の結果をネットで公開したことで、動きがあった。Kayeはこの記事を名誉毀損として民事裁判に訴えたが、そのことで逆にSlutskyが弁護のために証拠を固めることになる。かれは、実際にJamersonが録音したと知る立場にある当時の関係者複数から宣誓付きの証言(嘘をつくと偽証罪になる)を得るばかりか、その物的証拠となるモータウンの当時の契約書やスタジオ使用記録などを証拠申請して集めることとなった。結局、この裁判は審議に入るまでもなくKayeの側が訴えを取り下げることで終了した様子。
 モータウンでは白人のスタジオミュージシャンはたくさんいたらしく、Kayeが白人だからという理由で賞賛やリスペクトを奪われたということはありえない。だけど、女性として様々な苦労をしたというのは事実だろうし、自分の音なのに「女がこんな音を出せるはずがない」と言われたことも一度や二度じゃないと思う。そして、彼女がそれを打ち破って数々の名演奏を残したことは、賞賛されるべきだ。
 けれど、一般的にJamersonが演奏したとされている多数のモータウンのヒット曲の大半において実はJamersonではなくKayeが演奏していたという言い分は、どう見ても分が悪い。もし彼女の主張が正しいとすると、多数のミュージシャンや関係者を巻き込んだ大規模な隠蔽工作があり、かれらは一致して裁判の場における偽証や証拠偽造も厭わないほど彼女の功績を否定したがっている、ということになってしまうけれども、いくらなんでもそれは考えられないもの。いくつかの曲のベースを彼女がひいていた、くらいならありえると思うんだけど。
 これくらいの事実は調べて書いて欲しいよね、というのは常にそうなんだけれど、とくにこの場合は、米国において「黒人社会の閉鎖性によって」「白人が」不利益を得ている、という、倒錯した印象を与えかねない記事を書いているわけだから、普段よりさらに慎重に書いて欲しかった。


 ついでなので、リレーエッセイの1つ前にある「メジャーの隣――カナダの歌姫 Sarah McLachlan」についてもツッコミいれとこう。著者は、政治学者の岡野八代さん。彼女の『シティズンシップの政治学 国民・国家主義批判』は良いと思いますよ、はい。
 で、引用。

外国語の歌は、よほどじゃないと歌詞の意味まで考えてみたりはしないけど、サラの歌は、どうしてだか、いつも女性に語りかけているように聞こえる。そして、いくら合衆国のグラミー賞にノミネートされた経験があるとはいえ、やはり、サラはメジャーの隣で、〈自分がgood と感じる歌を自由奔放に〉がわたしのイメージ。このイメージは、サラのサウンドが要所で使われている映画 Better than Chocolate(1998年)を見たときから。ロンドンのレズビアン・ゲイ映画祭で賞をとったようだけど、残念ながら日本では、DVDは輸入盤しか手に入らない。
メジャーの隣――カナダの歌姫 Sarah McLachlan

 彼女の歌は女性に語りかけているように聞こえる、それはレズビアン映画の挿入曲として使われていたから−−って、なにそれ! 音楽についてのエッセイじゃなくて、単なる個人の思い出話になってしまっています。

本映画がカナダで公開された時は、単なる恋愛コメディで異性愛者におもねっていて陳腐、といったような評価しか下されなかった。だけど、内容は、レズビアン・ショップが検閲捜査にあったり――これは、カナダでマッキノン・ドゥオーキンの「猥褻概念」が採用されたあと、警察の標的になったのがゲイ・レズビアン本屋だったことを考えると、非常に政治的なメッセージがある――、トランスの「彼女」とレズビアンとのカップルが誕生したり、離婚して落ち込む母と、母にカムアウトできない主人公との葛藤など、レズビアン・コミュニティの様子をこまやかに見せてくれる。

 いやだって、あの映画に「おそろしいほど陳腐な恋愛コメディ」以上の評価は下しようがないでしょ。でもそれは悪いことじゃなくて、あれだけ陳腐な恋愛コメディがレズビアンコミュニティを舞台として製作されたという事実は、社会が良い方向に進んでいるということだと思う。また、陳腐な恋愛コメディにトランスジェンダーの人物が登場して、彼女の困難を描きつつ最後にはちゃんと結ばれる、というあたりも、それ自体大した事ではないのだけれど、当たり前のことが当たり前の陳腐さで表現されている、ということが新しいのかもしれない。
 ただし、トランスの女性を「トランスの『彼女』」と、まるで彼女がまがい物の「女性」であるかのような表記をしていることと、「トランスの『彼女』とレズビアンとのカップル」という形で、実際には二人ともレズビアンなのに「トランスの『彼女』」はレズビアンではなく、彼女の相手だけがレズビアンであるかのような記述となっていることは、軽く批判しておく。
 とまあそれはともかく、これってフェミ的な話題を扱うエッセイのはずだよね? だったら、なんでSarah McLachlanが企画して三年間実施した、女性ミュージシャンだけの夏のコンサートツアー、Lilith Fairの話をしないんだろう? 彼女自身がLilith Fairについて発言しているインタビューなんて、いくらでもあるんだけどな。あと、映画『Better Than Chocolate』の挿入曲について話すなら、「32 Flavors」を歌ったAni DiFrancoの方がずっとフェミでクィアな表現活動をしているし、彼女自身が運営するインディーズレーベルや、荒廃する地元のための社会活動の話題も含めて、いろいろ書けたと思うんだけどなあ。せっかく某教授の恫喝に屈して会費を払って記事を「書かせていただいている」のに、もったいない。


 そういえばずっと昔、友人がMcLachlan「Ice Cream」の歌詞から「your love is better than ice cream」と歌ってくれたので、チョコレートと比べたらどうなの?って聞いたら、ミルクチョコレートよりは上だけどダークチョコレートよりは下、という答えが。どうやら、単に彼女は乳製品にアレルギーがあるだけだったらしい…ってなにそのオチ!