日本の「ホモフォビア反対」言説のレベルってこの程度なのか

 大沢真理氏が Act Against Homophobia のサイトに寄せているコメント

 ホモフォビアは、人間の多様性と可能性を否定する人権侵害です。
 もっとも、私自身は異性愛・同性愛という捉え方をしていません。既成の社会は、女性に対しても男性に対しても、男性を愛し敬うことを強いる強制男性愛社会だと考えます。それに対しては、女性を尊重し愛すること?女性愛を推し進めることが重要です。暴力や環境破壊の根源に、ミソジニー(女性への侮蔑と嫌悪)があるからです。

それに対する、tummygirl さんの反応

 強制男性愛社会はまずいでしょ。大雑把すぎ。
 一時の上野さんみたいにホモソーシャルホモセクシュアルとは「全然関係ありません!」というのも少なくとももう一度セジュウィック読もうよ落ち着いてって感じでしたけれども、それ以前というかそれを超越しちゃっているというか。いきなりそこまで戻らなくても。しかもAAHのサイトで。
 しかも暴力や環境破壊の根源にミソジニーって。ミソジニーに基づく暴力もあるでしょうし、暴力の概念とミソジニーの概念を掘り下げていけばそりゃもちろん繋がっていくでしょうけれども、後者が前者の「根源」とか言われちゃうと、もう。「環境破壊」にしたってそんな簡単にまとめちゃったら、俗流エコフェミですわよ。

 tummygirl さんの言う通り、「強制男性愛社会」という言葉は無茶苦茶。言葉をこのようにテキトーに使うから、反対論者によって何やらおかしな解釈されてジェンダーフリーやらフェミやら全体を否定する論拠として濫用されちゃったりするので、わたしみたいな物好きが後始末をするハメになるわけですが、いーかげんにしろと言いたい。
 一応フェミに詳しくない読者のために大沢さんが何をいわんとしているかということを解説しておくと、フェミニズムの中には男性同性愛者に対する偏見や差別である「ホモフォビア」と女性同性愛者に対する偏見や差別である「レズボフォビア」を区別する考え方があるのね。レズビアンフェミニズムという、大多数はレズビアンではないけれども政治的にレズビアンというポジションを選択した異性愛者の女性による1970年代の考え方。
 この理論によれば、レズビアンが受ける抑圧は同性愛嫌悪でもなんでもなく、「男性を必要としない、男性から独立した存在としての女性」だからレズビアンは叩かれるのだとされる。それに対し、男性同性愛とは男性賛美・男性優位主義の極地であり、男性を美化するあまりに女性を必要としなくなったものだと意味付けられた。その意味で、当時のレズビアンフェミニスト(繰り返すが、「レズビアンフェミニスト」はレズビアンフェミニズムを信奉する人たちという意味であり、「レズビアンフェミニスト」を意味しない)はホモフォビアを「男性優位主義に対する正当な反発である」として擁護した。このように「ホモフォビア」と「レズボフォビア」は全く内容が違うのであり、前者の中に後者を含めるような考え方はおかしい、「ホモフォビア反対」というのは女性が女性固有の抑圧に抵抗する機会を奪うレトリックである、というのがレズビアンフェミニズムの論理。
 ところが tummygirl さんの挙げているセジウィックの指摘などにより「ホモソーシャリティとホモセクシュアリティは違う」「女性嫌悪的なのはホモセクシュアリティではなくホモソーシャリティの方で、ホモフォビアはむしろホモソーシャリティを駆動する部品の一つ」という理解が共有されるようになって、さすがにいまではホモフォビアをこのような文脈で擁護するフェミニストはいなくなったはず。
 さすがに大沢さんも、「ホモフォビアは人権侵害だ」ということは分かっている。けれども、彼女はその前の段階の考え、すなわち「ホモフォビア反対を訴えるのは、女性固有の抑圧に抵抗する機会を奪う」という考えをそのまま保持しているのではないか。だからこそ、「ホモフォビアは人権侵害」と言いながらも、「自分は異性愛・同性愛という捉え方はしていない」、すなわち「男性同性愛者と女性同性愛者を一緒くたにした『同性愛者』という集団に対する抑圧なんて認めない、あるのは『ミソジニー』であり、それが『男性同性愛者』『女性同性愛者』というそれぞれの集団に別個の抑圧的影響を与えている」ということになるのね。
 それでも、もし大沢さんが「ホモフォビアに反対するのも大切だけれど、ミソジニーに反対するのも忘れないようにしよう」と言っていたのであれば全く問題なかった。ところが彼女は、ホモフォビアは問題だけれど根源にはミソジニーがあるという言い方をしてしまっている。そのように特定の抑圧がものごとの「根源である」とする主張は現在のフェミニズムの水準から言えば間違った考え方だし、そんなおかしな発言が Act Against Homophobia のサイトに載ってしまったというのは驚異だと思う。
 もしかしたら、Act Against Homophobia のサイトは「ホモフォビアに反対」「ホモフォビアは人権侵害」とさえ言えばどんな内容でもコメントを載せてくれるのだろうか。そう思って他のメッセージをいくつか見てみると、どうもくだらないコメントが多い。日本におけるホモフォビアに反対する言論ってこの程度のレベルなのか、と呆れてしまった。

フォビアで苦しむのは、フォビアを抱えている当人の側

 本日早朝の記事のコメント欄にて

# spider plants 『突然の書きこみ失礼します。
学者も当事者も活動家も、ホモフォビアって、ところで何?というレベルにあるのが日本の現状なのではないかと思います。言葉自体もまだまだ流通していないのでは。これをきっかけに議論がいろいろできれば、ということなんでしょう。
 このブログでmasckaさんにもホモフォビアについてがつんと語ってほしいです。(こういう人頼みの姿勢はよくないのかもしれませんが、自分はそれを言語化できるだけのバックグラウンドも、これから理論をおってゆく時間的(=経済的)余裕がないので…。すみません。)』 (2006/05/10 22:00)

 あー、そう言われてもわたし「ホモフォビア」という言葉、あんまり使わないもんなぁ…
 そもそも「ホモフォビア」というのは同性愛嫌悪を病理化して揶揄する言葉で、それはかつて同性愛が精神病だとされていた時代に「同性愛を精神病と決めつける方こそ、精神を病んでいる」という価値観の錯乱は当時は有効だった思うけれど、同性愛を精神病とみなさない社会になってくるとただ単に「同性愛を嫌悪する奴はキチガイだ、ガハハハハ」と嘲笑しているみたいになってしまってなんとなく気分が悪い。
 字義通りに、同性愛者を差別したり嫌悪する背景に、「同性愛への恐怖」、もっと正確に言えば「自分自身の中に潜む(かもしれない)同性愛的な指向への恐怖」があるという意味に解釈するなら、ホモフォビアという言葉はなかなかうまい言葉だと思わないでもない。例えば、「アンケートなどで強い同性愛嫌悪を表明する人の方が、実際に同性愛のセックスシーンの画像に性的に興奮する」という調査結果もあるしね。(Adams HE, Wright LW, Lohr BA. 1996. "Is homophobia associated with homosexual arousal?" _Journal of Abnormal Psychology_, 105(3): 440-445. Download PDF)
 でも、ホモフォビックな論者との現実な議論においてというか、どんな議論においてもそうなんだけど、論争相手を精神分析しちゃうのは反則ですよ。「お前、精神科の医者にみてもらった方がいいんじゃないのか」なんていうのは議論の下手な連中がやる反則行為で、上手な人はそんな事口にせずに相手の論理的及び精神的破綻を明らかにします(笑) って話が逸れちゃったけどただ単に反則というだけじゃなくて、それじゃ相互理解や歩み寄りといったものは生まれようがない。だから、同性愛嫌悪の発生ルートの心理学的研究みたいな形では「ホモフォビア=同性愛恐怖」という概念を追求するのも良いと思うけれど、現実の政治課題において「あなたは同性愛を恐れている」と指摘することは無意味ではないかと思います。
 第一、ホモフォビアが字義の通り「恐怖」にとどまるのであれば、何を恐れようとその人の勝手。大切なのは、雇用などの面において差別しない、また結婚制度や税制などで異性愛者だけ特別に優遇しない、ということであって、同性愛を恐れる人がいることではないはず。
 もちろん、ホモフォビアという言葉は現在ではそういった内面のあり方についてだけではなく、制度的なあり方を指す言葉としても使われている。けれども、言葉のもともとの意味は「恐怖(症)」という心の内面を指す言葉だから、反対する側もそうでない側も、つい内面的な問題だと考えがちだ。「ジェンダーフリー」だって、もともと内面的なジェンダー規範の解消を目指す言葉として日本に導入されながら制度的な問題をも含む語となったけれど、どうしてもやはり内面の善悪で議論が詰まってしまって制度的改革へと話が進まない。ジェンフリ推進派も反対派もね。
 もともとどうということもない穏健な発想でしかないはずの「ジェンダーフリー」ですらこんなに混乱を巻き起こしていることを考えると、「ホモフォビア」みたいな、内面の問題(あなたの考えや感性を改めよ)と誤解されやすい言葉をあんまり積極的に使う気にはなれない。
 というわけで、セクシュアリティのあり方を理由とした暴力や差別や二級市民的扱いに反対、とそれで十分ではないかと思う。そういった制度面での公正が保証される限り、フォビアで苦しむのはフォビアを抱えている当人の側なんだからさ。