フォビアで苦しむのは、フォビアを抱えている当人の側

 本日早朝の記事のコメント欄にて

# spider plants 『突然の書きこみ失礼します。
学者も当事者も活動家も、ホモフォビアって、ところで何?というレベルにあるのが日本の現状なのではないかと思います。言葉自体もまだまだ流通していないのでは。これをきっかけに議論がいろいろできれば、ということなんでしょう。
 このブログでmasckaさんにもホモフォビアについてがつんと語ってほしいです。(こういう人頼みの姿勢はよくないのかもしれませんが、自分はそれを言語化できるだけのバックグラウンドも、これから理論をおってゆく時間的(=経済的)余裕がないので…。すみません。)』 (2006/05/10 22:00)

 あー、そう言われてもわたし「ホモフォビア」という言葉、あんまり使わないもんなぁ…
 そもそも「ホモフォビア」というのは同性愛嫌悪を病理化して揶揄する言葉で、それはかつて同性愛が精神病だとされていた時代に「同性愛を精神病と決めつける方こそ、精神を病んでいる」という価値観の錯乱は当時は有効だった思うけれど、同性愛を精神病とみなさない社会になってくるとただ単に「同性愛を嫌悪する奴はキチガイだ、ガハハハハ」と嘲笑しているみたいになってしまってなんとなく気分が悪い。
 字義通りに、同性愛者を差別したり嫌悪する背景に、「同性愛への恐怖」、もっと正確に言えば「自分自身の中に潜む(かもしれない)同性愛的な指向への恐怖」があるという意味に解釈するなら、ホモフォビアという言葉はなかなかうまい言葉だと思わないでもない。例えば、「アンケートなどで強い同性愛嫌悪を表明する人の方が、実際に同性愛のセックスシーンの画像に性的に興奮する」という調査結果もあるしね。(Adams HE, Wright LW, Lohr BA. 1996. "Is homophobia associated with homosexual arousal?" _Journal of Abnormal Psychology_, 105(3): 440-445. Download PDF)
 でも、ホモフォビックな論者との現実な議論においてというか、どんな議論においてもそうなんだけど、論争相手を精神分析しちゃうのは反則ですよ。「お前、精神科の医者にみてもらった方がいいんじゃないのか」なんていうのは議論の下手な連中がやる反則行為で、上手な人はそんな事口にせずに相手の論理的及び精神的破綻を明らかにします(笑) って話が逸れちゃったけどただ単に反則というだけじゃなくて、それじゃ相互理解や歩み寄りといったものは生まれようがない。だから、同性愛嫌悪の発生ルートの心理学的研究みたいな形では「ホモフォビア=同性愛恐怖」という概念を追求するのも良いと思うけれど、現実の政治課題において「あなたは同性愛を恐れている」と指摘することは無意味ではないかと思います。
 第一、ホモフォビアが字義の通り「恐怖」にとどまるのであれば、何を恐れようとその人の勝手。大切なのは、雇用などの面において差別しない、また結婚制度や税制などで異性愛者だけ特別に優遇しない、ということであって、同性愛を恐れる人がいることではないはず。
 もちろん、ホモフォビアという言葉は現在ではそういった内面のあり方についてだけではなく、制度的なあり方を指す言葉としても使われている。けれども、言葉のもともとの意味は「恐怖(症)」という心の内面を指す言葉だから、反対する側もそうでない側も、つい内面的な問題だと考えがちだ。「ジェンダーフリー」だって、もともと内面的なジェンダー規範の解消を目指す言葉として日本に導入されながら制度的な問題をも含む語となったけれど、どうしてもやはり内面の善悪で議論が詰まってしまって制度的改革へと話が進まない。ジェンフリ推進派も反対派もね。
 もともとどうということもない穏健な発想でしかないはずの「ジェンダーフリー」ですらこんなに混乱を巻き起こしていることを考えると、「ホモフォビア」みたいな、内面の問題(あなたの考えや感性を改めよ)と誤解されやすい言葉をあんまり積極的に使う気にはなれない。
 というわけで、セクシュアリティのあり方を理由とした暴力や差別や二級市民的扱いに反対、とそれで十分ではないかと思う。そういった制度面での公正が保証される限り、フォビアで苦しむのはフォビアを抱えている当人の側なんだからさ。