やっぱり仲正さんについてもちゃんと言っておこう

本家では放置しておいたけれど、分かってない人たちがウザイので…

小谷野 英語で「ジェンダーフリー」といえば、「チェア“マン”(議長)」を「チェア“パーソン”」に言い換える、「男性/女性名詞」のような「性(ジェンダー)」から自由に文章を書くといった、かなり特殊な意味で使われることはままありますが、日本で使われる「ジェンダーフリー」は完全に和製英語であって、そんなおかしな言葉を使って「ジェンダーフリー」というより「男女平等」と言えばすむ話でしょう。


仲正 金沢の田舎学生のように「カタカナの方が知的に聞こえる」というだけなら罪はないのですが、その語感から「ジェンダーというのはフリーになるべきものだ」というイデオロギーが無理矢理持ち出されるのはいただけません。「フリー」というのは“自由・解放”ではなく、マックス・ウェーバーの「価値中立」――英語では「バリュー“フリー”」です――のように、「あるものから離れて相対的に自由に思考してみる」という意味で捉えるべきで、せいぜい「男性の視点から離れて、女性の視点で見てみる」という「発想の転換」のすすめに過ぎません。

まず第一に、「ジェンダーフリーは完全に和製英語」という小谷野氏と、あくまで英語として「ジェンダーフリー」を解釈しようとする仲正氏のあいだで議論が成り立っていない。また、「ジェンダーフリー」を「男性の視点から離れて、女性の視点で見てみるという発想の転換のすすめ」という仲正氏の解釈はこれまた珍説。これまでどのジェンダーフリー擁護派も批判派もそんな意味でこの言葉を使っていない。さらにもし仲正氏の言うように「バリューフリー」からの連想で言うなら、「バリューフリー」が「価値中立」であれば「ジェンダーフリー」は「性別中立」、すなわち「男性の視点から離れて、どちらの性でもない視点から見てみる」のはずでは?

それでも頭の悪いフェミニストが言うような「ジェンダーからの解放」を目指すなら、「八木秀次は男性解放主義者だ」といった、ジェンダー的な決めつけからも自由になるべきです(笑)。「女性中心主義」という非難をすることなどないくせに、いろいろなものに「男性中心主義」というレッテルを安易に貼ってアンチをやればそれでいいんだというのは、「フリー」好きなわりには頑な過ぎます。

誰がいつ「八木秀次は男性解放主義者だ」って言いましたか? 聞いたことがないです。それから、フェミニストが「女性中心主義」を非難しないのは、今の社会は男性中心主義的にできている(すなわち、男性を標準として回る仕組みになっている)と思っているからでしょ。女性中心主義なんてのは用語としてすら存在しません。

仲正 セクハラというのは、そもそも男と女の感受性の違いを前提としている。上司の男が女の部下の体を触ればセクハラになるけど、女の上司が男の部下の体を触れば男の方はそんなにセクハラに思わないことも少なくない。しかし、男女を絶対的に平等に扱うべしといったジェンダーフリー論者からすれば、そういう違いは許せないことになるけど、男の女に対するセクハラはを追及すれば追及するほど、ジェンダーフリーは絵に画いたモチになるし、逆にジェンダーフリーを徹底していけばセクハラそのものがどんなことがあっても存在しないということになりかねない。その意味で「ジェンダーフリー」と「セクハラ追放」は相容れない考えで、その双方が簡単に両立できると思う一部フェミニストは馬鹿そのものです。

もし男女の感受性の違いによってセクハラが起きるのであれば、なおさら仲正氏が解釈するところの「ジェンダーフリー」を実現すればセクハラは解決できるはずでは。両立してますよねー。ここは多分そうではなくて、「セクハラをなくそうという運動は男女の感受性が本質的に違うことを前提としている(だから、感受性の差は社会的構築であり無くすことができるというジェンダーフリー論と矛盾する)」という意味なんじゃないかと好意的に解釈しようかと思ったのですが、はっきり言ってそんな前提ないです。ただ単に仲正氏が「セクハラは男女の感受性の違いによって起きる」と考えているだけでは。第一、男性のセクハラ被害者に失礼だよ仲正さん。

私はフェミニストフェミニストでも、もう少し賢いフェミニストと付き合っていますが、彼女達は「ジェンダー・センシティブ」、つまり、ジェンダーの違いにむしろ敏感です。互いの性を尊重した上でという立場です。男女雇用機会基本法施行後の現状を見ても分かるように、「均等」はかえって女性を苦しめるし、そもそも均等になりえないのに、馬鹿なフェミニストはそういうことを隠蔽します。肉体労働やスポーツ、軍隊など、職業的にみて、男女をどうしても分けるべきものがあります。

ここで仲正さんが描写しているようなフェミニストのことを「カルチュラル・フェミニスト」と言いますが、かれらは「ジェンダー・センシティブ」なんていう言葉を使いません。フェミニズムの文脈で「ジェンダー・センシティブ」というのは実は社会構築主義と親和性の高い用語で、「社会的に作られた男性と女性とのあいだの権力差に敏感になりましょう」という意味なのね。もし仲正さんがお付き合いしている人たちがカルチュラルフェミニストで、しかも「ジェンダー・センシティブ」という言葉を使っているなら、あんまり賢い人たちじゃなさそうです。


もう1つ、仲正さんは「均等はかえって女性を苦しめる」と言っていますが、ここでかれは「雇用機会の均等」を「結果の均等」とすり替えています。確かに体力のない女性が肉体労働をすれば苦しむでしょうが、体力もやる気も十分にあるのに雇用機会が与えられずに職を得られない女性求職者は幸福だとでも言うんでしょうか?

仲正 左翼活動家たちは、公安警察への恐怖心『一九八四年』の独裁者ビックブラザー論に加えて、その後の現代思想ブームによってミシェル・フーコーの「パノプティコン(一望監視施設)」のイメージが重なり、どんどん「監視国家ニッポン」というイメージが膨らんでいったのです。今だと、小倉利丸さん(富山大学教授)のような左翼的な人々が「市民が見張られている」と煽る。しかしその「市民」は我々一般人ではなく、色のついた“プロ市民”でしょう。公安も暇ではないから一般人まで監視するわけがないし、我々普通の市民も自分の日常行動が隅々まで監視される側になるとは思っていない。

あのー、それじゃフーコーへの反論になってません。日本の左翼が何言ってるかなんて知らないですけど、少なくともフーコーは「普通の市民の日常行動が隅々まで監視される」などとは言いません。とゆーか、いつから八木さんや小谷野さんが「我々一般人」になったんですか? 自虐史観ジェンダーフリー禁煙ファシズムと戦う闘士たちって、左翼のいわゆる「プロ市民」と呼ばれる人たちとどれだけ違うと言うんでしょうね。

八木 (略) オーウェルだって、かつてのスターリン時代のソ連、今なら北朝鮮のような独裁者にNOといえない、日記に「金正日のバカ」と書けないほど私生活が監視されている全体主義の世界を描いたわけで、今の日本とは天地の開きがあります。


仲正 ジェンダーフリーにしても、禁煙や監視社会論にしても、「似非科学」が妙に採用されているという点で共通しています。理系ではありえないでしょうが、学問的に完全に検証しようがない学説が、文系の世界ではいつの間にか社会原理、「正義」になってしまう。一部の学者がいうことを単純に鵜呑みにし、法律になるとそれは有無をいわさぬ「真実」になる。結局声が大きいほうが勝ってしまう。これこそまさにファシズムでしょう。

ふむふむ、八木さんによると今の日本は全体主義の世界とは天地の開きがあって、それに「監視社会論は(現実ではなく)似非科学」と言って仲正さんも同調しているみたいなんだけれど、同時にかれは現状が「まさにファシズム」だと言っているんですね。なんじゃそりゃーっ、全体主義なのかそうじゃないのかはっきりしなさいよ。