ジェンダーフリーとアファーマティブアクションの逆説

 chiki さん@トラカレに約束しちゃったから明日か明後日あたりには本家の方でアファーマティブアクションについて分かりやすい解説を書こうと思ってたんだけど、その関連でこんなの読んでしまったので(この人って、今の社会が既に平等が完全に実現した社会だと思ってるんだ、すごーい)、ちょっと思ったこと。以下は後に本家で発表する文章の予告編です。
 わたしはクォータ制タイプのアファーマティブアクションには基本的に反対。もっとファジーで弾力性のあるアファーマティブアクションがいいと思うから。だけど、クォータ制が社会的に容認される社会的要件というのも考えていて、それは(性差別問題なら)男性と女性とのあいだに意識や役割において大きな違いが存在する社会を前提とする限り、という条件。
 例えば議会や国の審議会なら、ただ単に有能な人物であれば誰でも良いというわけじゃなくて、より広範な国民の意識を代表するという意義もあるはず。仮にいくら有能な男性がたくさんいたとしても、かれらに女性と同じものの見方ができるわけでもなければ、女性が果たしている性役割から来る特有の経験を持っているわけではないわけで、意識や役割において性差の大きい社会であればあるほど議会や審議会のメンバーが一方の性に偏るのは問題。単により有能だからというだけで一方の性ばかりが選ばれた場合、他方の性の多数の人が感じている生活実感や問題意識が政治に反映されないということになるでしょ。それだと国民の多数が不幸になるから、やっぱり男女とも一定数の議席は持てるような制度が必要になりそう。ジェンダーフリーが実現した世の中であれば、単純に一番有能な人に政治家になってもらってたまたまどちらかの性に偏っても何も問題ないけれどね。
 同様に、医学大学の入学選考をどうするかという問題を考えてみると、ジェンダーフリーの社会であれば医者が男性であろうと女性であろうと有能であれば構わないけれど、意識や役割における性差の大きな社会では例えば女性の患者には男性に相談しにくい事がたくさんありそうだし、その逆もしかり。それなのに、有能だからというだけで一方の性ばかり医者になるようだったら、他方の性の人は病気になってもまともに医者にかかれなくなってしまう。もちろんあんまり無能な人を医者にしたらもっと悲惨だけど、トップから順番に入学を認めなくてもある程度能力のある人の中からどちらかの性に偏りすぎないように取って医者に育成しておくという方が全体的な幸せは大きくなるはず。
 どうしてこうなるかというと、議員や医者といった地位はその地位についている人のためにあるんじゃなくて、社会のためにあるんだ。だからクォータ制も、かれらのためにあるんじゃなくて社会のためにある。社会には男性も女性もいるんだから、どちらの性の人も恩恵を受けられるようにすることを考えて人材を育成ないし選抜しなくちゃいけない。ジェンダーフリーの社会なら育成もしくは選抜された人が有能でさえあればたまたまどちらかの性に偏ってもそれほど害はないけれど、意識や役割のうえで性差が大きな社会なら人材が一方の性に偏ることは危険だから、悲惨なことにならないような防波堤、たとえば「一方の性が全体の7割を超えないようにする」みたいなクォータ制を導入する必要が出てくる。
 ある国にほぼ人口の等しい2つの民族があったとして、お互いに宗教や言語が違っていたと考えてみて。そんな国で、なにかのはずみで国会議員の8割が一方の民族みたいなことになったらきっと紛糾するよね。だから、そういう民族構成の国では社会を安定させるためにクォータ制に似たことをやっていることが多い。でも両民族がお互いにほとんど似た文化を持っていて、日常生活では誰が何民族なのか意識しないくらいだったら、議員が自分の民族かどうかより自分の支持政党がどれだけ議席を取ったかの方が気になるはず。男性と女性は別民族じゃないけれど、意識や役割に大きな違いがあるなら、生活実感や政治に望むものが違っていてもおかしくないじゃない。
 つまり、よりクォータ制を必要とするのは実はジェンダーフリーの社会ではなく、男女の性差がはっきりしていて性役割分担がはっきり決まった社会の方なのね。ジェンダーフリー派の人がアファーマティブアクションを主張していたとしても、それは過渡的なことでしかない。性差の大きい社会では恒常的に必要だよ。だから「ジェンダーフリーに反対・アファーマティブアクションにも反対」なんてのは基本的にダメで、どちらか1つ選ばなくちゃいけません。さて、どうしますか?