エンターテインメント化されたジェノサイド

大手ゲームパブリッシャー Activision が先月 PS2/GameCube/Windows PC/Xbox/Xbox360 向けに発売したMレーティング(17歳以上用)の新作ゲーム GUNネイティブアメリカンの団体 Association for American Indian Development が抗議中、ボイコットを呼びかけるサイトも運営している。
 このゲームの宣伝文句は「Experience the BRUTALITY, LAWLESSNESS, GREED and LUST that was the West」。プレイヤーはアメリカ西部開拓時代に生きる主人公を操作して、暴虐と無法の限りを尽くすというのがその内容らしく、その一貫としてアメリカ先住民の部族をさまざまな武器を使って大量に虐殺することがゲームの中で繰り返される。史実として実際に起きたジェノサイドの反復がエンターテインメントとして提供されていることにネイティブアメリカンたちが怒るのはとてもよく分かる。
 わたしはブログに書いた「『正義の暴力』がもたらす認知の歪み、そして社会がゲームを非難できない理由」という記事で、社会心理学者の坂元章氏の研究を引きながら人は単に暴力的なゲームで遊べば暴力的になるという単純なものではなく、その暴力がどのようなコンテクストに位置づけられているかが重要なのではないかと述べた。ただ単に暴力的な主人公を操るゲームよりも、カッコいい正義のヒーローが「悪者を倒す」的なストーリーによって暴力と正義を結びつけたゲームの方が危険らしい、ということだ。しかし、そのとき差別的な内容のゲームの影響についてはあまり考えていなかった。
 これは検証したわけではないので断言できないのだけれど、おそらく暴力について坂本氏が論証したような関係が、差別についても言えるのではないか。すなわち、差別的な描写が差別的なものとしてではなく、何らかの正義と結びついた場合により危険なのではないかということだ。とすると、ネイティブアメリカン団体の抗議に対して Activision は「歴史的な事実に忠実なだけで、差別的な意図はない」と言うだろうけど、むしろ差別的に描写したつもりではないのに差別的な内容であることが問題かもしれない。
 このゲームにおける他のミッションとしては、腐敗したシェリフや犯罪者などを倒すことが含まれており、「戦闘的な部族」との対決はそれと並列して位置づけられる。わたしは田舎(ミズーリ州)の高校に通ったのでアメリカ史の授業では教師が「勇敢な開拓者たちが残虐なインディアンたちを懲らしめた」的な話をするのを聞かされた記憶があるのだけれど、このゲームにおける先住民虐殺の位置づけはそれと同じそっくりだ。
 まるでどちらが侵略者か分からないようなやり方だけど、考えてみれば当たり前だ。もし仮にゲームの内容がより開拓者側の侵略性を明らかにするものであったら、いくらなんでもとっくに誰かが「これは差別的だ」と気付いて開発が中止されているはずだもの。でも、差別的な内容が正義と結びつけられる方がよっぽど危険な可能性がある。
 Activision にしてみれば、抗議されても西部開拓時代のゲームに先住民との対決が出て来ないのは不自然だし、仮に先住民が出て来ないゲームを作ったらそれはそれで「史実を曲げている、先住民の存在を消去しようとしている」と抗議されていたかもしれない。しかし、そもそもある民族にとってのジェノサイドが起きた時代を、そのジェノサイドを起こした側から描写したようなゲームを作る必要があるのか。
 それで言うなら、ナチス時代のドイツの側に主人公を置くようなゲームを(確信犯的差別主義者を別にすると)誰も作らないのが卑怯なところだ。ユダヤ人団体に抗議されるのは怖いけれど、ネイティブアメリカンの団体は怖くないと思っているのだろう。作ればいいじゃないの、強制収容所での暴動を鎮圧するために銃を乱射するようなゲームを。ところが逆に、3Dシューティングゲームの元祖 Wolfenstein 3D が「ナチに捕まった主人公がヒトラーを倒す」というストーリーによって当時としては衝撃的な暴力性を意味的に正当化したように、圧倒的な「正義」の根拠としてユダヤ人に対するジェノサイドは利用されている。それはそれでホロコーストの被害者に失礼だとは思うけれど、主人公がかれらを虐殺するストーリーよりはずっとましだ。
 今回最も問題なのは、こうしたゲームが大手ゲームソフト会社Activision から販売されていることだ。どこかの個人が悪ふざけして作った「地下鉄サリンゲーム」的な不謹慎ゲームとは話が違う。第一、不謹慎ゲームは、不謹慎であることが誰の目にも明らかであるという点でまだましだ。ネイティブアメリカンに対するジェノサイドがエンターテインメントのネタとして提供されることは、差別的な表現が差別的であるとは容易に判断できない文脈に置かれることを意味する。それはやはり、とっても問題じゃないかと思う。


【追記】この記事をアップしたら、「おとなり日記」にホロコースト否定論(歴史修正主義)のブログがでてきた。そんなの「おとなり」じゃないよーだ。