多様性を好意的に紹介すればそれでいいのか
以下に紹介するのは、今年の出したり受け取ったりしたメールを処理していて発掘したもの。読売新聞の記事でSEANというフェミ系の団体が子ども向けの絵本を分析して作った報告書について知り、その中で引っかかった部分についてその団体に送った意見が以下。一応丁寧なお返事をもらってそれは良かったのだけれど、後にこの団体が反ポルノ講座みたいなのをやってるのを知って「いまどきそりゃないだろ」と思ったり。別にいいけど。
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こんにちは、SEANのみなさま。はじめまして。
今朝、報告書「絵本に見る家族と子ども??2000年以降出版の絵本調査から」についての読売新聞大阪版7月9日の記事(のオンライン版)を読み、連絡しています。調査自体はとても興味深く、有用なものであると感じましたが、1点だけ気付いた点があります。
記事中ですが、
海外の作品の中には、母親は登場せず父親の彼女と娘との交流をユーモラスに描いたものや、トラに育てられたヒョウの子が本当の家族とは何かを考える物語などがあった。
と書かれています。その「トラに育てられたヒョウの子」の絵本について、米国でも一般的には「多様な家族を表現している」と肯定的に評価されているのですが、社会政策と養子縁組の問題について研究した者として言わせてもらえば、現実には子どもを深く傷つける内容であると考えています。
実はこの物語、1つだけではありません。「コウモリの家族と鳥」「普通の馬とシマウマ」といった様々な形を取りながら(わたしが確認しているだけでも10種以上出版されています)、全く同じストーリーが語られています。そのストーリーというのは、「トラに育てられたヒョウの子」であれば、ヒョウの子どもが家族の中で自分だけトラでないのはおかしいと気付き、「本当の」家族を見つけるために旅をし、さまざまな困難の末にヒョウの群れを見つけるのだけれど、一緒に生活しようとしてみても(トラの家族に育てられているため)どうもうまくいかない、それで最後に育ててくれたトラの家族に戻ってみたところ、「わたしたちが本当の家族だよ」と暖かく迎え入れてくれる、というのがだいたいの筋書きです。
こうした絵本は、養子として育てられている子ども、特に(米国では養子を欲しがる側に圧倒的に白人が多く、養子となる側に圧倒的に黒人やラティーノが多いため)白人家庭で育てられている非白人の子どもに買い与えられています。すると、子どもの目から見てストーリーはどう解釈されるか。「お前は自分の人種や文化には捨てられたのであり、自分と同じ伝統を共有する仲間や元の家族を見つけようとしてもロクな事はないから、せいぜい今与えられた白人の家庭で我慢しろ、白人になりきれ」という、一種の人種差別的な脅しとなります。
さらに、そもそもどうして養子市場(という言葉に違和感があるかもしれませんが、現実に人種や年齢、障害のあるなしによって需要と供給のバランスから値段が決まっているので「市場」と呼べると思います)が人種によってそれだけ傾いているかというところまで考えれば、それは貧困家庭への支援を削って代わりに中流以上の家庭に減税するといった社会政策にも関係しますし、就職や司法制度における差別の経済的な結果などもあります。非白人の家庭に限るなら、児童保護当局によって保護される子どもの過半数は虐待されたのではなく、ただ単に親が貧しいため十分な食事や洋服を与えられなかったり、仕事をいくつも兼業しなければいけないために子どもと一緒にいる時間が取れなかったりするのが原因であり、社会政策によっては養子に出される必要の無かった子どもたちです。
わたしはこれを、奴隷制にはじまり、ネイティヴアメリカンの子どもを無理矢理コミュニティから引き裂いて寄宿制の学校に入れさせたり、人種差別的な司法制度によって黒人男性の3分の1を刑務所に入れたりするのと地続きな、大きな不公正だと考えています。そして、「トラに育てられたヒョウの子ども」的な絵本は、そうした不公正を成り立たせている1つの要素だと認識しているので、「多様な家族を描いた」というだけで肯定できないと思います。
日本からですと、おそらくその深刻さが分からないと思いますが、一見良心的に見える米国の絵本にもそういった問題があると知っていただけたらよいと思い、メールしました。
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養子問題については、いずれ本家ブログで本格的に書かないといけないな。福祉政策・人種差別といった国内的な問題から、米国の軍事行動にまで関係してくる問題だから。「軍事とどういう関係が?」と思った人は、国際養子縁組の制度自体が朝鮮戦争直後に韓国からの子ども輸入からはじまったことを考えてみてほしいけど、詳細はそのうち。