フェミナチとして監視されているらしいわたしのブログ(笑)
わたしがブログで林道義氏と論争(というにはあまりにバカみたいな話だけど)している件についてかの有名な「フェミナチを監視する掲示板」で取り上げられているという話を聞き、見に行った。そこにあったわたしへの批判についてはただ単に読解力の不足とか無茶苦茶な暴論みたいなのばかりで特に反論する必要も感じられないのだけれど(わたしのブログなり掲示板なりに書き込まれれば相手をしないでもないですが、わざわざこちらから取り上げることはないというコト)、わたしではなく筒井真樹子さんの記事について多少なりとも取り上げるに足る議論をしていた神名龍子さんのコメントについて。
ただし彼女と私とでは、おそらく「自己決定」という言葉の意味が異なっていると思います。この「自己決定」というのはTG(トランスジェンダー)左派が好んで使う言葉のひとつなのですが、実は単なる独善論に過ぎません。
たとえば「性同一性障害の戸籍上の性別は当事者自身の自己決定に任せるべきだ」とかですね。
だけど現実には、なぜ当事者が戸籍上の性別を問題にするのかといえば、単なる自己満足が目的ではなく、他者との関係の問題です。他者が自分をどの性別で扱ってくれるのか、ということですね。
もちろんそれは当事者自身の性自認も無関係ではないのですが、だからといって他者が「私」をどう認識するかということを、「私」の自己決定で決めてよいはずがない。なぜなら、それは他者の人格を無視して、自分を特権的な地位に置くような発想だからです。
(略)
TG左派はしばしば、医療や法制度などの「社会」のシステムを取り上げて論じますが、当事者自身が自分の「かく在りたい」を実現するために、自分がどういうコスト(手間ひま)を払うかということを、まったく論じません。文句をいう割には、すべて「社会」に「おんぶにだっこ」で世話になろうとする。しかし実際にはそういうわけには行きませんから、その不満がすべて社会批判という形で表現されることになるわけです。
私の考えでは、「自己決定」には「自己責任」や「自助努力」が不可欠であって、それらを考えることなしに実現することはありえません。「自己決定」という言葉は、決して社会批判の文脈でのみ使うような言葉ではありえない。この視点が欠落すると、「自己決定」という言葉は独善論を主張するのに便利な「ツール」に堕してしまうのです。
一般論として、誰も他人がその人をどの性別として扱うかを左右することはできないという所まではその通り。もちろん男性を自認している人を女性として扱ったりするのは失礼だとは思うけれど、失礼だからといって即禁止されるわけじゃない。せいぜい、あなあがわたしの性自認を尊重しないなら、わたしもあなたの性自認を尊重しないという具合に報復できる程度。
ところが問題なのは、個人間の関係ではなく、個人と国家の関係において性自認が尊重されないこと。トランスジェンダーでも性同一性障害でもないマジョリティの側は何の自己努力をすることもコストを払うこともなく自分の性自認に合致した性別として国家により扱われ、その事に疑問を抱くことすらないのに、マイノリティの側だけが性自認と異なる性別として扱われることによるコスト(や、戸籍上の性別を変更するためのコスト)を支払わされるというのは不平等であり不当だ。
「誰も国家によってどういう性別として扱われるか選択できない」という状況は一見平等に見えるかもしれないけれど、マイノリティの側だけにコストが押し付けられている状態であり、形式的平等であったとしても実質的平等ではない。「誰も選択できない」制度ではなく「誰でも性自認を尊重される」(あるいは、国家が個人の性別に関与しない)制度になった時点で、はじめて実質的平等になるわけ。
国家が個人を法の下に平等に扱うことは憲法上の義務でもあるし、当たり前のこと。それを実現するためのコストがかかるとして、それを一方的にマイノリティばかりに押し付けるのは間違い。社会全体で平等に負担すべきに決まってる。もちろん私人にはそんな義務はないから、男性だという人を女性として扱っても「失礼」以上のものにはならないけどね。
神名さんの議論は、「トランスジェンダーでも性同一性障害でもない人」を基準としたうえで、基準から外れた人たちが直面するさまざまな困難や不便さの解消の責任をマイノリティの側だけに押し付けているように思う。でも、国家による性別管理こそがそうした困難や不便さの一部を生み出しているのであれば、少なくともその部分について是正する責任は国家の側にあるはず。国家は人々がトランスジェンダーの人たちを受け入れるよう強要することはできないし、するべきでもないけれど、国家自身がかれらを不平等に扱って良いはずがないもの。
ちなみに、今日で多分わたしも「はてな市民」になれるはず♪