「障害についての意識調査」結末編

 しばらく病気が長引いて、放置してしまった「障害についての意識調査」について、いまさらながらに結末編。
 なんのことだか覚えていない人は、こちら参照


 まず、この問題について考えてくださった方に感謝します。
 わたし自身の立場が基本的に「のざりん」さんの述べる原理論そのままであることは、本家ブログのわたしの日頃からの主張を知っている人なら分かると思う。現実問題として、真に平等なアクセシビリティを保証するにはコストがかかりすぎるからとしてアクセシビリティの平等を制限せざるを得ない場合があるのは認めるけれど、それはそうした制限を通した効率化による利益が、アクセスを遮断される人たちに優先的に分配され、結果的にその方がかれらにとって利益になるという条件においてのみ認めても良いという格差原理的な立場に立つ。今回問題となった設定では、同等の権益を受け取るために障害者だけ余分にコストを払えという内容であり、認められない。
 ところで、実はこの設定は架空の話ではない。固有名詞を省いただけで、現実に争われた裁判の設定そのまま。裁判では昨年6月22日に判決が出ていて、内容は原告の障害者団体の敗訴だった。以下に同日付けのAP通信の記事から引用する。

PHILADELPHIA -- A federal judge ruled that Amtrak can charge a group of wheelchair users extra to ride in the same car together.


The wheelchair users, members of Disabled in Action of Pennsylvania, travel to Washington regularly to lobby. They sued after Amtrak told them that they could ride together on a Philadelphia-to-Washington train but that some of them would have to pay $200 more than the usual ticket price to cover the cost of removing seats.


The group sued, saying the policy violated the federal Americans With Disabilities Act.


U.S. District Judge Harvey Bartle III said Friday that under federal law, Amtrak must have one space to park a wheelchair and one space to store an unoccupied chair per passenger coach. It can charge extra for anything beyond that, Bartle ruled.

 どうしてこういう事になってしまったのか。わたしは実際に資料を見たわけではないけれど、この記事から判断するに原告はこの問題を「障害がある客にだけ違った扱いをする、差別の問題」として提訴したのに対し、被告は「障害がある客にどれだけ特別な扱いをするのが妥当か」という「アコモデーションの問題」であると反論し、判事が後者に同調したということだと思う。
 原告側の論理では、障害者も健常者も客として同等のサービスを受ける権利があり、まったく同じサービスを受けるために障害者だけ余分にコストを支払わさせられるのは差別だ。ところが被告側は、ほかの客と同様に座席を提供することこそが「同等のサービス」であり、車椅子を使用する客のために座席を外したりすることは「障害者に対する特別な配慮」であると主張した。ADA では、公共の交通機関は「リーズナブル・アコモデーション」ーー合理的な配慮ーーをするよう求められているけれども、配慮義務は絶対ではなく制限が付いている。判事は「列車一両ごとに、車椅子のまま座ることができる場所を1つ、折り畳んだ車椅子を収納できる場所を1つ」備え付けることがその「合理的な配慮」にあたり、それ以上のことを要求するのであれば原告は特別料金を支払うべきだ、と結論付けたということになる。
 わたしは、この「配慮義務」という論理はとても問題だと思っている。本来、不平等の問題として扱われるべきものが「配慮の欠如」とされてしまうことは、健常者を標準として社会制度を構築し、障害者を二級市民扱いすることを肯定することだと思うからだ。障害者にとって問題なのは、かれらに対する「特別の配慮」が欠如していることではなく、「特別の配慮」をしてもらわなければ参加できないような形に社会が構築されてしまっていることであるはず。でも、米国の法制度はそうなっているわけで、現行法上は仕方がない判決なのかもしれない。