ジェンフリ飽きたって言ってんでしょ

わたしの書いた「ジェンフリもう飽きたよ」に対する再反論らしいので、もう一度だけ応える。

「保守派が言う『ジェンダーレス』とは、男と女がみな同じことをしなければいけない社会、あらゆることが50%と50%で分けられなければいけない社会でしょ。大沢さんが求めている社会は、そんなのではないはず」の個所が引っかかるところだ。
 macska女史は「保守派が言うジェンダーレス」と「大沢さんが言うジェンダーレス」を区別しているけれど、これらは同じものである。保守派がmacska女史が言うような定義をしているのかどうか私は知らないが、仮にそうだとしても、同じことを一般的、包括的な表現で表せば大沢流になるし、もっと具体的な言い方をすれば保守派流になる、というだけのことだろう。

 この人の理解では、大沢さんの言う「ジェンダー解消」とは保守派が批判する「ジェンダーレス」と同義であり、男性と女性がありとあらゆる役割を50%ずつ分担しなければならない社会のことだという。しかし、大沢さんの記述そのものにそういう内容は一切見られない。「ジェンダー解消」という言葉を使う点で大沢さんは大半のジェンダーフリー論者とは異なるように見える(かれらのほとんどは、ジェンダー解消とは言わない)けれど、それが実際に意味するところは性別による規範の解消、すなわち特定の「男らしさ」「女らしさ」や性役割を強要するような社会制度の改革であり、その目指すところは一般のジェンダーフリー論者と何ら変わりない。
 これは、前回のわたしの記事できちんと説明したことだ。それが違うというのであれば、大沢氏が「男性と女性がありとあらゆる役割を50%ずつ分担しなければならない」という意味で「ジェンダーの解消」を主張したという証拠を1つでも挙げてみせれば良いのに、この Bruckner05 という人はそれもせずにただ単に自分の思い込みに固執している。どうしてそんなに頭の中で架空の「論敵」を作り上げてそれを否定してみせるという作業に執着しなければならないのか。

ジェンダーフリーが必然的にジェンダーレスになるのは、おかしなことでも何でもない。ジェンダーフリーでは、「ジェンダーにとらわれるな」「男も女もない、個人として生きよう」「男らしく・女らしくではなく自分らしく」等々の言い方がなされている。
 例えば「ジェンダーにとらわれるな」と言った場合、「ジェンダーにとらわれた生き方」は許容されるのだろうか。されない。ジェンダー・チェックで明らかなように、ジェンダー肯定の意識は女性差別的で、男女平等に反するとして、否定されるのだ。

 ジェンダーフリーの精神はジェンダーの多様なあり方を肯定するのだから、当然「伝統的な」ジェンダーのあり方だって一方的に否定されるいわれはない。当たり前のことだ。しかしそれは、多様性肯定の口実のもとにさまざまなジェンダーのあり方に対する意見の表明を否定することにもならない。つまり、「伝統的な」ジェンダーのあり方を選択する生き方も認められることを大前提としたうえで、それに疑問を呈することがあってもいいはず。再三わたしが指摘している通り、ジェンダーフリーの運動は「女の子だからといって赤いランドセルと決めつけるのはやめませんか」という呼びかけであり、「女の子に赤いランドセルを与えてはいけない」という価値判断ではない。この両者はまったく異なった考え方であり、混同されるべきではない。
 「伝統的な」ジェンダーのあり方に対してそのように疑問が提示されることは、「伝統」の否定ではない。それはむしろ、それまで選択肢として意識されずにただ惰性として生きられてきた「伝統的なジェンダー」というあり方を選択肢として認識するきっかけとなり、主体的にコミットされるものとして「伝統」をより豊かにするとわたしは考える。

では、大沢流「ジェンダーの解消」を貫くと、どんな世界ができるのか。規範の持つ強制力を無くすには、規範が規範であることを止める以外にない。つまり性別規範が意味を失い、性別カテゴリーが無くなる世界だ。そこでは、男も女もなく、ただ性別のない人間がいるだけ。無数の個人が「自分らしく」行動している世界である。
 大沢女史が「性差より個人差」と表現しているとおり、このような世界では性差は完全に否定されている。いるのは個人だけ、人間だけである。性差がないのだから、女性差別も起こりようがない。
 (※性別のない人間は、性のグラデーション上にat randomに並んだ人間とも言える。大沢真理さんは「n個の性」と表現している)
 性別規範が意味を持たず、性別カテゴリーのない世界で、無数の個人が好き勝手に生きるとして、あえてそこに「男」「女」のカテゴリーを持ち込んで統計を取ってみれば、男女間の生き方に差は見られないはずだ。もし差があったら、性別規範がまだ生きていたということになってしまう。
 かくてジェンダーが解消された世界では、各個人が多種多様な生き方を自由に選択しているように見えながら、実は行動面では、男女間の統計的性差は存在せず、男でも女でもない中性的な人間がいるだけということになる。

 この部分はやや現実離れしているけれども、非常に興味深い思考実験だ。「性別カテゴリーのない世界」が実現したとした場合、それはわたしたちが「性別」と呼ぶ生物学的特徴が失われた世界という意味ではなく、そうした特徴にことさら大きな意味を見出さないような社会になるという意味だと思う。そうなった社会に、突如現代の生殖学者が派遣されて、無理矢理かれら未来人を男女のカテゴリに分類し、それぞれの傾向を分析してみたら、「性差」は発見されるだろうか?
 Bruckner05 さんによると、大沢氏の目指すものは、そうなった時に男女間の統計上の差が一切発見されないような、「中性化」した人だけが住んでいる社会だという。しかし、わたしはどうもそうだとは思えない。実際に統計学上の差異があろうとなかろうと、「性別カテゴリーが規範として機能しない世界」になればそれだけで大沢さんは十分に満足するんじゃないだろうか。
 また、性別カテゴリーが規範として機能しなくなった社会を Bruckner05 さんは「男でも女でもない中性的な人間がいるだけ」と表現するけれども、これは正しくない。というより、保守派が「ジェンダーフリーは男女の区別を無くしてみんな同じ中性的な人間にしようとしている」と批判する時点で間違っている。ジェンダーフリーは、2個の頑丈な性別のカテゴリーから人々を解放し、無数のカテゴリーあるいはカテゴリーに収まりきらないものーーその中には、もちろんもともとの2個のカテゴリーも含まれるーーを認めようという立場であり、2つのカテゴリーを合体させてたった1つしかカテゴリーが存在しない状態にしようという考え方ではない。
 Bruckner05 さんは「大沢女史のジェンダーフリーは、私にはまさしく人間の中性化を目指したものと映る」と何の根拠もなく勝手に決めつけているが、間違っている。中性化というのは2つのカテゴリーを混ぜ合わせてその中間のものを作ることだけれど、ジェンダーフリーの運動が主張するものはそんなことではない。ジェンダーの規範を解消することは、多種多様なジェンダーのあり方を肯定することであって、「男らしさ」「女らしさ」という規範を「中性的」という新たな規範に置き換えることとは正反対だ。
 このあたりの議論も、わたしや他の論者によって何度も説明を受けたことであるはずなのに、なぜか Bruckner05 さんはそれらの説明を無視し、世界中の誰も言っていないことを「これこそがジェンダーフリーの思想である」と決めつけて叩いてみせる。不毛だと思わないですか? もっとちゃんとした議論やろうよ。わたしだって他にいろいろ言いたいことがあるのに、「曲解の指摘」ばかりしていたくないし。


 ところで不毛と言えば、最近 Bruckner05 さんのサイトで嫌がらせのコメントを載せていた人物が名乗り出たと聞きました。精神的に不安定なところがあり悩んでいたらしく、いまでは反省しているとのことです。本来なら本人が直接 Bruckner05 さんに謝罪するべきだと思うのですが、今回はこれで一件落着ということで勘弁してやってください。