ぶるっくなー救済計画 続行中

 Bruckner05 さんの最新エントリ「続・ジェンダーフリーはジェンダーレスではない?」へのお答え。
 まず、わたしの指摘をまとめた(1)〜(5)については(そのまま引用している部分もあるので当たり前といえば当たり前だけれど)かなり正確にこちらの意図をまとめてあり、助かる。そのまま引用する。

(1)大沢真理氏が言う「ジェンダーの解消」は余り使われない表現で、ふつうそんな言い方はしない。その意味は、性役割を強要するような規範の解消ということで、一般のジェンダーフリー論者が言っているのと同じ(例えばchiki氏=「性差の押し付けから自由になること」)。


(2)chiki氏が言う「ジェンダーフリージェンダーレスとは違う」は、「ジェンダーフリーは(保守派が言うような意味での)ジェンダーレスとは違う」という意味。ここでのジェンダーレスは、「男と女がみな同じことをしなければいけない」「男性と女性がありとあらゆる役割を50%ずつ分担しなければならない」を意味する。(1)の「ジェンダーの解消」とは別個のもの。


(3)ジェンダーフリーの精神はジェンダーの多様なあり方を肯定するのだから、当然「伝統的な」ジェンダーのあり方だって一方的に否定されるいわれはない。当たり前のことだ。しかしそれは、多様性肯定の口実のもとにさまざまなジェンダーのあり方に対する意見の表明を否定することにもならない。つまり、「伝統的な」ジェンダーのあり方を選択する生き方も認められることを大前提としたうえで、それに疑問を呈することがあってもいいはず。(そのまま引用)


(4)ジェンダーフリーは、2個の頑丈な性別のカテゴリーから人々を解放し、無数のカテゴリーあるいはカテゴリーに収まりきらないものーーその中には、もちろんもともとの2個のカテゴリーも含まれるーーを認めようという立場であり、2つのカテゴリーを合体させてたった1つしかカテゴリーが存在しない状態にしようという考え方ではない。(そのまま引用)


(5)Bruckner05は「ジェンダーフリージェンダーレスは繋がって」いて、「ジェンダーフリーは、論者が意図するしないにかかわらず、必然的にジェンダーレスへと暴走する」と言うが、根拠がない。

 上記がわたしの主張であると確認したうえで、Bruckner05 さんはこう反論する。

 chiki氏は、「性差の押し付けから自由になる…それって『性差』をなくすってこと?」と書いているように、ジェンダーフリーとは性差の押し付けから自由になることで、性差を無くすことではないと言う。
 しかし両者は違うものではない。ジェンダーフリーを貫徹していけば、男女間で行動面に差は見られなくなる。男性と女性がみな同じことをしなければいけない社会であり、性差はないのだ。

 Bruckner05 氏は過去にもこのようなことを書いていたが、「ジェンダーフリー=性差の押し付けから自由になる」を貫徹しただけでどうしてこのような結末になるのか全く理解できない。ジェんダーフリーを貫徹していけば、人々が性別によって制限を受けることなく自由に自分の生き方を決められる社会になるだけであり、ことさら「性差」がどうだという意識は薄れるかもしれないけれど、現実に「性差」が消滅するわけではない。「男女間の行動の差」はいまの社会より小さくなるかもしれないけれど、それだけで消滅するという根拠は薄い。
 いや、もちろん「性差」が消滅する可能性だってあるのよ。それは、現実の「性差」が押し付けや強要によってのみ維持されていた場合だ。もし「性差」が押し付けや強要によってのみ成り立っているのだとしたら、押し付けや強要をなくせば確かに性差は消滅するだろう。わたしは「性差は押し付けや強要によてのみ成立している」という前提を信じないけれども、もしその前提が正しいのであればジェンダーフリーが(目標としてでなく)結果として「性差の消滅」を招いても別に問題はないと思う。押し付けや強要によって維持するほどの価値があるとは思えないからね。
 ジェンダーフリーの「論理的な帰結」が性差消滅であるという Bruckner05 さんの主張は、「性差の全ては押し付けや強要によって維持されている」という前提がなければ成り立たない。しかし、もし押し付けや強要を無くした世界でまだ性差があるならそれでもいいし、押し付けや強要を無くした結果性差が無くなってしまったとしたら、それもまた構わないのではないか。いずれにしろ、ジェンダーフリーが目指すものは「押し付けや強要をなくすこと」であり、その結果性差が残るかどうかなんてことはどうでもいいはずだ。
 ところが、Bruckner05 さんは自分の主張の前提となっている「性差の全ては押し付けや強要によって維持される」という命題を、自分ではなくジェンダーフリー論者の前提だと決めつけてかかる。

 ジェンダーフリーには1つの前提がある。それは生物学的性差はごく僅かであって、その違いは男女の行動原理や振る舞い方に大した影響を与えていないというものだ。この前提に立てば、「男はこうすべき、女はこうすべき」という性別役割(社会的性差)が解消されたら、男女間に行動面での差がなくなるのは当たり前である。

 男女の行動面の差の全てが「男はこうすべき、女はこうすべき」という規範の押し付けによって成り立っているのであれば、そうした押し付けをなくせば男女の差がなくなるのは当たり前というのは、まったくその通り。しかし、それを前提とした議論を組み立てているのはジェンダーフリー論者ではなく Bruckner05 さんのほうだ。ここでジェンダーフリー論がこの前提に立っていることを示すためとしてある家庭科の教科書から引用しているが、引用される側の文献のレベルが低すぎる。ひとつの家庭科教科書の内容が間違っているというだけであって、それだけでジェンダーフリー論が必然的にある前提を抱えていると指摘したことにはならない。
 繰り返すけれど、ジェンダーフリー論というのは固定的な性別のあり方や性役割分担の押し付けをやめましょうという主張でしょ。ジェンダーフリー論者の中には「生物学的性差なんてほとんど関係ない」と主張する論者もいるかも知れないけれど、生物学的性差があるかないかなんてことにはジェンダーフリー論は何ら依存していない。つまり、「生物学的性差なんてほとんど関係ない」というのは、ジェンダーフリー論の前提でもなんでもないのね。
 さらに不思議なのが、押し付けや強要をやめた結果「男女の性差が見られなくなった社会」のことを、Bruckner05 さんが「男性と女性がみな同じことをしなければいけない社会」と記述していることだ。押し付けや強要が無くなったからといって性差がなくなるとは限らないけれど、仮に無くなったとしたらそれは「押し付けのない、自由な選択」の結果たまたま無くなったわけであり、「みな同じことをしなければいけない」社会ではない。「みな同じことをしなくても良いし、男女の性差をなくさなくてもいいけれど、自由に選択した結果たまたま性差がなくなった」社会でしょ、それは。
 さらに言うと、男女の統計上の差がないことは、「みな同じ」とは違う。これは生物学的な差異を例にすれば分かりやすいと思うけれども、例えば仮に男女の平均身長の差がなくなったとしても、それは人々がみな同じ身長であるということではないはず。行動面においても、仮に男女の統計上の差がなくなったとしても、全員が中性化して同じになるということではない。これも当たり前の論理だ。
 このように、Bruckner05 さんの主張は、論理がまったく通っていない。とにかく「ジェンダーフリーの理想とする世界はこれだ」「ジェンダーフリーはおそろしい結果を招く」という結論を出すことばかりに執着して、普通に論理をたどることができなくなっているのではないか。どうしてそうまでして「ジェンダーフリー」を悪者に仕立て上げなければいけないのか、全く理解に苦しむ。