ぶるっくなー救済計画(2)

 Bruckner05 さんの「『多様性の尊重』というプロパガンダ」について。
 まず、Bruckner05 さんは、わたしが「多種多様なジェンダーのあり方を肯定」と言っていることに対して、ジェンダーフリー派などが定義するところによるとジェンダーとは規範のことを指すわけだから、肯定的に捉えられる「多種多様なジェンダー」というのは字義矛盾である、そんなものはジェンダーではないのではないか、という反論というかツッコミがあった。「ジェンダージェンダーである限り、性別カテゴリーを通して特定の型を押し付け、新たな抑圧を生み出すだけだからだ(彼らの論理によるならば)」と言う。まったく正しい指摘だ。
 わたしが「多種多様なジェンダーのあり方」と言ったことは、意味は伝わると思うけれども厳密な記述ではない。厳密に記述するならば、「ジェンダーの規範から自由な、多種多様なあり方」と言うべきだった。もちろん、わたしの記述がそういう意味の発言であることは Bruckner05 さんを含め読者の誰もが分かっていたと思う。
 すなわち、「ジェンダーフリー」をつきつめると「ジェンダーの解消」(大沢)になるという Bruckner05 さんの指摘は、これまでにも書いてきた通り正しい。間違っているのは、その「ジェンダーの解消」を保守派が批判する種類の「ジェンダーレス」と同意と決めつけている部分だ。
 保守派が批判する「ジェンダーレス」とは、「男らしい男性」「女らしい女性」の存在が許されず、誰もが同じ「中性的」な生き方をしなければいけない全体主義社会だ。そういう社会を望ましいと考えているジェンダーフリー論者は、現実のどこにも存在しない。
 現実のフェミニストジェンダーフリー論者が主張しているのは、あくまで「ジェンダーに制限されることなく、多種多様な生き方を追求できる社会」だ。それは、今の社会で「男らしい」とされるような性質を持った「男性」がいてもいいけれど、「男らしくない」「男性」たちだっていてもいいという社会だ。ここまでの話は、当たり前の基礎知識として持っておいて欲しいところ。
 さて、保守論者の多くにとっては、ジェンダーフリー論者の主張を正確に解釈したところでそれに全面的に納得できるものではないだろう。例えば、「男らしさ」「女らしさ」といった価値観を、伝統文化の尊重という方向から擁護する主張だってあっていいと思う。というより、そういった方向から「ジェンダーの解消」的な進歩主義に抵抗することこそ、保守思想本来のあり方というか存在意義ではないかと思う。
 ところが実際の保守論者は、現実には世界中どこにもありえないような荒唐無稽な「ジェンダーフリー像」を捏造して、それを叩くことに夢中になっている。まるで一昔前のサヨクみたいであり、情けないと思わないのだろうか。
 「ぶるっくなー救済計画」というのは、Bruckner05 さん及びその他の反ジェンフリ論者たちに、「存在しない論敵を捏造して叩くというマッチポンプを繰り返して喜ぶ旧サヨクバックラッシュ」から、「進歩主義思想を懐疑する真摯な保守論者」へと脱皮して欲しいとの願いを込めてはじめました。救済できるわけがないじゃないかと呆れている読者も多いと思いますが、もう少し続けます。
 重要なことは以上。残りは、細かいお返事。

 この辺りに決定的な認識の差があるようだ。macska女史は「それ(=伝統的なジェンダーのあり方)に疑問を呈することがあってもいい」と書くけれども、この場合、疑問を呈する主体は政府や地方自治体、教育委員会であったり、行政の男女共同参画施策をサポートする各種女性団体であったりする。民間の識者や活動家が疑問を提示するのとは訳が違うのだ。
 ここでは疑問は事実上、否定と同じである。公的権威を背景に持つのだから。例えば学校教育では、「男(女)らしくよりも自分らしく」が男女平等と教えれば、子供たちが「『男(女)らしく』は男女平等と両立する」と思えるはずがない。思えたとしても、試験の答案用紙にはそう書けない。書けば×にされるのだから。

 ここを読む限り、Bruckner05 さんは「民間の識者や活動家」(女性団体もその一種)が「伝統的なジェンダーのあり方に疑問を呈する」ことはOKだけれど、公的機関がその権威を背景として疑問を呈するのはいけない、なぜならそれは実質上否定・押し付けの類になるからだ、と言っている。なるほど、公権力を介した押し付けにならないような注意は必要だろう。学校教育で理不尽な試験があるとしたら、それは是正されるべきだ。
 けれど、そういう個別の「行き過ぎ」の可能性があるというだけで、何の働きかけもしてはいけないというのであれば、これはジェンダーの問題に限らず公的機関が行っている多くの活動を否定することになる。Bruckner05 さんもそういう事は分かっているらしく、こう書いている。

 例えば行政が「マナーを守りましょう」と啓発しても、それは意識への干渉とは言えないだろう。「マナーを守りましょう」は、社会構成員の大多数が容認する取り決めであり、法律に準じる大切な規範だからだ。だが、「男(女)らしくよりも自分らしく」「性差より個人差」はそうではない。社会的合意もないのに、いつの間にか法律で決まってしまい、多くの人が「なんだそれ?」と疑問に感ずる似非規範なのである。

 「マナーを守りましょう」といっても、具体的に何がマナーであるのかについては必ずしも社会的な合意が存在するわけではない。一方、「男だから、女だからといって特定の役割を押し付けないようにしよう」という考え方は、企業における職員の扱いにおいてであれば、かなり大きな社会的合意があるように思える。また、一般社会では「押し付け」と見られるようなことが、学校教育においては「教育」の一環として正当化されるということもよくある。そして「伝統的なジェンダーのあり方に疑問を呈する(相対化する)」ということは、それらと比べて特に突出していない。要するに程度問題であり、行き過ぎた例があれば是正していけば済む話。
 行政の「意識啓発事業」とやらが胡散臭いというのはわたしも大賛成なのよ。「ジェンダーチェック」とか「Gender Free」パンフレットなんかアホかと思うし。わたしが Bruckner05 さんにお願いしているのは、それらを批判するために「ジェンダーフリーは多様性を認めない」みたいなウソを振り回すのはやめてよねってこと。 Bruckner05 さんの問題意識をきちんと突き詰めると、問題とするべきはジェンダーフリーではなくて、行政が行う「意識啓発」一般じゃないかと思うんだけど、違う? それとも、意識啓発の内容が自分の好むものの場合は良くて、ジェンダーフリーは嫌いだから反対なの?