批判対象と同じ問題を抱えた「極論としてのフェミニズム批判」
khideaki さんの「フェミニズムのうさんくささ」という文章をきっかけにいくつかのブログで反論があがっている件についていくつかコメント。これまでの議論の経緯はここで全部示さないけれど、トラックバックをたどれば分かるはず。
ポイント1:「極論としてのフェミニズム」批判の無意味
khideaki さんは、フェミニズムは基本的には正しいとした上で、このように言う。
たとえ善意から出発したフェミニズムであろうとも、それが極論にまで達すれば論理的には間違えるというところに僕はうさんくささを見る。
わたしからみると、うさんくさいのはむしろ「善意」をやみくもに肯定してしまうことであり、「極論にまで達すれば論理的に間違える」ことではない。だって、「極論にまで達しても間違えない」思想なんてあるわけがないもの。もし「極論としてのフェミニズム」の問題を批判するのであれば、フェミニズムが他の思想や運動と比べて特に「極論」に走りやすい理由や、その実例を挙げて批判するのでなければ意味がない。
khideaki さんが「極論としてのフェミニズムが到達する可能性のある誤謬」とは、「差異があることを、その現象だけで不当な差別だと考える一面的な論理的誤り」らしい。確かに、差異があるというだけで不当な差別だと考えているのだとしたら、それはおかしいだろう。けれども、かれはそういう「極論としてのフェミニズム」が実際に存在することを一切示してはいない。ただ単に、個別の事例について男女の区別を付けることに異議を唱えるフェミニスト(もしくはその他の人たち)の存在を示しているだけだ。
それら個別の例についてはさまざまな意見があるだろうし、フェミニズムの中でも一致してこうだという見解があるわけでもないはずであり、まさしくかれの言う通り個別にその是非を論じれば良いはず。「差異があるのは、すべて男性優位の思想の表現である」というのは極論であるという khideaki さんの主張のは正しいが、同じく「差異に異議を唱えるのは、すべて極論である」というわけではない。極論を批判すると言いながら、逆の極論に陥っていないか。
「すべての根拠を男性優位の社会構造に還元すべきではない」という批判だって、本当にフェミニズムの一部もしくは全体が「すべての根拠を男性優位の社会構造に還元」しているのかどうかという検証を欠いていて、単なる思い込みでしかない。実際のところを言えば、すべての問題を男女差別に還元する主張は70年代のラディカルフェミニズムにおいて存在したけれども、いまではそれは完全な間違いだったとする認識が一般的だ。
ポイント2:デマと事実の区別をしない批判
khideaki さんが「極論としてのフェミニズム」の例として挙げている中には、事実だが極論とまでは言えないような例(名簿を男女混合にする、など)とは別に、到底事実とは言えないものも混ざっている。例えば、かれは石原慎太郎東京都知事の発言のうち「男らしさ、女らしさを差別につながるものとして否定したり、ひな祭りやこいのぼりといった伝統文化まで拒否する極端でグロテスクな主張が見受けられる」という部分を引き、それが「正当なもの」だと言っているが、実際に「ひな祭りやこいのぼりといった伝統文化まで拒否する極端でグロテスクな主張」がどこにあるというのか。間違った前提に対して正しい判断をしていたとしても、発言自体が「正当なもの」であるとは言えない。
例えば、「朝鮮半島を再び植民地化せよと主張する石原知事はグロテスクな帝国主義者である」と言う人がいたとしよう。もし知事がそのような事を実際に言っていたとすれば、この批判は確かに「正当なもの」と認められるだろう。しかし、実際に知事がそのような発言をしたという話は聞かない。事実でないことを根拠に相手をおとしめるような批判は、かりにその論理が内部的に正しくても「正当なもの」とは言えないはずだ。
khideaki さんともあろう人にそれだけのことが分からないはずはないので、おそらくかれは一部の保守派のデマに騙されて「グロテスクなジェンダーフリーの主張」が実際に存在すると思い込んでいるのであろう。それが間違いであることは、例えば「ジェンダーフリーとは」やそこからリンクされている様々なページを読めば分かるはずなので、参考にしていただきたい。
khideaki さんはさらに、「もし自分の主張がまともなフェミニズムだと思うのなら、僕の批判などは、極論としてのフェミニズムを批判したものなのだから、それと自分とは違うと言ってしまえばそれですむのではないかと思う」と言っているけれども、「フェミニズムのうさんくささ」という題を付けている以上は批判の対象(架空の存在なんですが)以外のフェミニストから反発されて当然だ。また、「フェミニズムの中の、こういう主張をしている一派に対する批判」として解釈しようにも、そのような一派がそもそも存在しない架空の存在というか早く言えば悪意あるデマの受け売りでしかないわけで、フェミニズムそのものの評判を傷つけるための発言ではないかと思われても仕方がない。
ポイント3:知識不足による批判
khideaki さんは、rossmann さんの「フェミニズムの歴史もなんにも知らないことが分かる文章だ」という批判に対して、自分は「個別的な知識について何か言及」しているのではなくフェミニズムが陥りかねない論理的誤謬について言及しているのだから的外れだと反論している。論理的にそういう危険があるという点については、ありとあらゆる思想にそういう危険はあるわけで一般論として間違いではないけれども、わたしもやはり khideaki さんの批判は知識不足でなければありえないものだと感じる。
具体的にどういう知識が欠けているか。khideaki さんは、フェミニズムとはことさら性別による差異を敵視するものだと考えていて、それが行き過ぎることを懸念している。しかし現実には、フェミニズム内部で差異の解消が大々的に主張されていたのはかなり昔の話であり、差異の解消よりはむしろ差異の承認を迫る理論もたくさん存在することを khideaki さんは知らないのではないか。事実、それら両者のうちどちらか一方を「極論」になるまで押し進めるというのではなく、矛盾をはらむ双方の路線がフェミニズムという運動の中だけでなく一人の活動家や理論家の中でも葛藤しながら共存していることが、現代フェミニズムに深みをもたらしているとわたしは評価する。どちらか一方だけ取り出して極限まで押し進めればおかしなことになると言われても、そんな批判は現実のフェミニズムには一切当てはまらない空想でしかないと言うほかない。
あるいは、企業や大学によるセクハラへの取り組みに問題があるとして、それをフェミニズムの責任にする前に、実際にフェミニストたちがどのような取り組みを主張しているのか khideaki さんは調べたことがあるのだろうか。このことは別のエントリにするつもりだけれども、企業や大学がセクハラへの取り組みとして行っていることの多くは単なる事なかれ主義による保身的対応であり、必ずしもフェミニストが主張してきた通りの真摯な取り組みではない。さらに言うなら、男女共同参画政策として行われることはフェミニストの主張そのままではなく、政治家や行政のフィルタを通したものであり、役所の権限や予算を拡大するための小道具になっている面もある。そういうネゴシエーションにおいて誰が何を主張しているのかという具体的な事実を見ずに全ての責任をフェミニズムに押し付けるのは間違いであり、知識不足だと批判されて当然だ。
結論
khideaki さんは、理念的に「極論としてのフェミニズム」について批判したりあるいは運動論の面からそれが余計な反発を呼び起こす危険を懸念するのではなく、ブログでも書籍でも良いので具体的におかしなフェミニズムの主張を見つけて批判してみてはどうかと思う。いくら「フェミニズム全体を批判しているわけではない」と言っても、そういった個別の例を挙げずにイメージとして頭に描いた「極論としてのフェミニズム」を批判するという姿勢は、批判の対象とする範囲が厳密でないという点で、「極論としてのフェミニズム」信奉者のふるまいとそれほど違わない。個別の現象についての批判であれば、それが「差別の例」であれ「フェミニズムの過剰の例」であれ具体的に是非が検証できるので歓迎したいと思う。