「行き過ぎた」のはいったいどちらか

続きになるけれど、khideaki さんの「行き過ぎたフェミニズム批判としての『フェミニズムの害毒』」について。
 まず、善意から出発したはずの思想が自己目的化して暴走することを懸念しているはずの kideaki さんが、こともあろうに「家族を守る」というまっとうな「善意」から出発してフェミニズム全否定という全体命題に到達してしまった林道義氏の主張を「行き過ぎたフェミニズムの害毒」として読めば良い、みたいに救済してしまうのは、一貫性に欠けるように思う。フェミニズムの「行き過ぎ」にイデオロギー的に反対するのではなくその「行き過ぎ」を理由に批判するのであれば、「反フェミニズム」の「行き過ぎ」も同様に批判するのが筋ではないだろうか。
 khideaki さんは言う。

実際にはフェミニズムというのは、その論理構造からいって、常に行き過ぎる可能性をはらんでいるのである。だから、行き過ぎに注意していないと、うっかり失敗することが必ずある。

 別の記事のコメント欄にも書いたけれど、フェミニズムに限らず思想や運動というのは常に行き過ぎる可能性をはらんでいる。khideaki さんはまるで何かフェミニズムに特有の「論理構造」があって、そのため「行き過ぎる可能性」が生じているかのような書き方をしているけれど、そんな危険は左右を問わずどんな思想にだってあるに決まってる。保守的な思想の例を出すと、「愛国主義」でも「敬老の精神」でも「法律の尊重」でも、極端に突き詰めれば問題が起きることが容易に想像できるはず。だからこそ、あらゆる運動は内部や外部からの批判に常に晒されることが必要なわけであって、フェミニズム内部の議論や相互批判の苛烈さを考えると特にフェミニズムに暴走の危険が高いということはまずありえない。
 極端な話をするなら、わたしは人は誰でも暴力をふるってしまう危険があると思うし、下手すると殺人をおかしてしまう可能性だって全くゼロだとは言い切れないと思う。かといって、特定の個人に向かって「お前は殺人犯予備軍だ」と決めつけた批判をするのであれば、その人が特に暴力的な傾向を持っていることを示す必要がないですか? そういう事実がないのであれば、その特定の個人についてではなく、一般論として言わなければいけない。一般論として言うべきことを、特定の人名を挙げて「あの人が殺人を犯す危険がある」と言えば、その人から「いわれのない中傷だ」と反発されて当たり前でしょ。その場合、その人は「自分だけは絶対に殺人を犯すわけがない」と言っているわけじゃなくて、「自分の名前をそこで挙げるのは不当だ」と言っているわけ。それだけのことが khideaki さんには分からないらしい。
 かれは、以下のような内田樹さんの発言を引用している。

「だから、フェミニズムが近代的システムの硬直性や停滞性を批判する対抗イデオロギーであるかぎり、近代文明に対する一種の「野性」の側からの反攻であるかぎり、それは社会の活性化にとって有用であると私は思っている。だが、有用ではありうるが、それは決して支配的なイデオロギーになってはならない質のものである。(ヒッピー・ムーヴメントや毛沢東思想やポルポト主義が支配的なイデオロギーになってはならないのと同じ意味で。)それは「異議申し立て」としてのみ有益であり、公認の、権力的なイデオロギーになったときにきわめて有害なものに転化する、そのようなイデオロギーである。」

 これも、フェミニズムに限らずあらゆる思想や運動について言えることではないのか。「支配的なイデオロギー」という言葉がどういう意味で使われているのかはっきりとは分からないが、イデオロギーが権力と結びついて反論や懐疑も許さないような状態になることが「きわめて有害」なのは当たり前のことだ。どんなに暴走しても(あるいは権力と結びついても)全く害がないようなイデオロギーなんて存在しないわけで、フェミニズムについて特にそうだと言うことに何ら意味はない。
 続けて、林道義氏ら「反フェミニズム」の論者の批判が、現実のフェミニズムではなく誤解されたフェミニズムについてのものだという指摘に対して khideaki さんはこう批判する。

ここで語られていることは本物のフェミニズムではないという意見もあるだろう。誤解されているのだというわけだ。しかし、本当に深刻なのは、フェミニズムを本当には知らない人間は、たいていこのように誤解するということなのだ。誤解しているだけだからフェミニズムには責任がないと簡単に済ませることは運動論的な間違いだと僕は思う。これが誤解であるなら、誤解であることを分かるように示すことこそが大事なことなのだ。誤解する方が悪いという姿勢は、運動論的に運動の弱体化をもたらすだけだ。それは、誤謬に対して鈍感な姿勢なのである。

 まず言いたいことは、論理的な議論に運動論的な反論を混ぜないで欲しい。運動論として誤解を説くためにどのような努力をすべきかということは別個に議論し得るけれども、その前にそれが誤解であること、そしてフェミニズムを正面から批判できないと観念したためか、わざとデマを広めているとしか思えない論者が存在することを確認してからにしないといけない(誤解が自然発生的なものなのか、それとも故意に事実を捩じ曲げている論者がいるのかという点は、運動論を考えるうえで必要なポイントだ)。khideaki さんが述べていることが事実でないと指摘されたのだから、事実でないということを受け入れるのであれば、「事実でないとしても運動論上の問題がある」などと言わずに、まず過去の発言を撤回することからはじめてはどうだろうか。
 そもそも、運動論というのはフェミニズムの目的を共有する人が勝手に考えれば良いわけで、もし khideaki さんがそうでないのであれば運動論的なアドバイスなどせずに放っておけば良いはず。運動論を誤ったためにフェミニズムが破滅したところで、khideaki さんに何の関係もないではないか。要するに、本来ならどうでもいいはずなのに、自分への批判を交わすためにその場しのぎに運動論に逃げているに過ぎない。
 日常的に見られる「フェミニズムの害毒」の例として、khideaki さんは林氏の著書から以下のエピソードを紹介している。

林さんの妻が女性だけの研究会に行ったとき、会が終わってから食事に誘われたらしい。その時「夫が待っているから」と断ったことに対して、「あなたは自立していないのねえ」とイヤミを言われたという。このとき、林さんは、「「夫のために早く帰る妻は自立していない」という公式を当然のように信じている女性たちがいると言うこと」に驚いていた。そして、これを「フェミニズムの悪影響のためである」と断じている。

 あのー、これって単なるイヤミでしょ? 本気で「あなたは自立していない、ちゃんと自立して夫のために早く帰るなんてことはやめなさい」と言われたわけじゃないんでしょ? フェミニズムの悪影響と言うよりは、フェミニズム(っぽい言説)をネタとしておどけているだけなんじゃないかと思うわけですが… こんなのが「フェミニズムの悪影響」の例として出て来るところからして、さすが林道義という感じですね。
 ところが、khideaki さんもこのようなネタ的コミュニケーションをベタに受け取ってこう言う。

これに対して、その女性研究者はフェミニストではないとか、間違ったフェミニズムを基礎にして考えているから誤解するのだといっても、林さんはおそらく納得しないだろう。もちろん、林さんを納得させる必要はないと思っているフェミニストがいたら、ここから先の議論は必要ない。林さんのような保守主義のオヤジなどは、頑固頭の分からず屋だから、そんなオヤジが何を思おうと関係ない、というフェミニストだったら何も議論する必要はない。
 そう言うフェミニストには、勝手におまえらの運動をしろよ、というだけだ。相手のことを自分たちが理解する必要がないと思っている人間を、こちらから理解してやろうという優しさを見せるほど僕は人間が出来ていない。フェミニストがそう言う姿勢を持っているなら、やはりフェミニズムはうさんくさいものであり、決して社会の主流になってはいけないイデオロギーだという内田さんの主張を支持したい気持ちになるだけだ。

 いかなる事実や論理をもってしても林道義さん個人を納得させることができるとは到底思えないけれども、「保守主義のオヤジ」の中には説得できる相手だっていると思うし、どんどん説得するべきだと個人的には思う。でもそれは運動論だから、フェミニズムに何らコミットしていない人が指図するような問題ではない(批判するのはアリだけれど、善導的に「こうした方が良い」的なアドバイスを送る立場にはいない)。

林さんのようなオヤジを受け入れることは、フェミニズムにとっては損なことのように見えるかも知れないが、そうすることによってフェミニズムは確実な真理性を手に入れることが出来るのだ。受け入れるというのは、何も主張に賛成しろということではない。林さんの批判は、対象が「行き過ぎたフェミニズム」に限定される限りでは正しいのである。その正しさを受け入れるべきだということだ。

 この主張は、まったく倒錯している。「行き過ぎたフェミニズム」の個別の実例をあげてそれを批判するというのであれば、フェミニズム内部でも頻繁に行われているし、全く何の問題もない。そういった批判自体を拒絶したり感情的に反発するフェミニストだってほとんどいない。けれども、かれやその他の「反フェミニズム論客」による「フェミニズム批判」は、現実にはありもしないものをでっちあげたうえで、あるいはかなり特殊で一般化できないような実例を上げて、それを根拠にフェミニズム全体を否定するものだ。そのような論法のどこに「正しさ」を見出せば良いと言うのか。先に「論理の正しさは、前提となる事実の正しさを示さない」と指摘したけれど、林氏や八木秀次氏らの「フェミニズム批判」は論理も事実も間違いだらけなのだ。
 もちろん、だからといって本全体丸ごと間違いだらけということはないわけで、中には正しい指摘だって少しはあるだろう。それを認めるということを、フェミニストが拒否するとは思えない。例えば、林氏によるフェミニズム批判の一つに「フェミニズムは『働けイデオロギー』に乗せられて、女性を職場に追いやっている」というものがあるが、フェミニズムの一部にそのような傾向があったことはフェミニズム内部からさんざん批判がなされている。林氏の記述は、フェミニズムが内部にそうした豊かな対話と対論の歴史を持つことを無視し、また弊害はあるとはいえ「働けイデオロギー」的なものを掲げざるを得なかった固有の事情を無視し、一方的に「フェミニズムはこうだ」と決めつけ断罪するものだから批判されているわけであり、もしかれの主張が「働けイデオロギー盲信はよくないよね」というだけであれば誰も反発したりはしない。


最後に、セクハラ論議について。khideaki さんは、「セクハラ論議のおかしさは、フェミニストたちはまったく疑問を感じないのだろうか」と言う。疑問どころか、おかしいと思うからわたしは積極的に是正を呼びかけている。しかし、世間に流布している「セクハラ論議」全ての責任をフェミニズムに押し付けるのも、まるでセクハラ騒動の責任を被害を訴えた人に押し付けるようなものであり、不当だと思う。セクハラという問題を最初に訴えたのがフェミニストだったとはいえ、セクハラについて発言しているのはフェミニストだけではない。誤解されるのもフェミニストの責任だというが、それはフェミニストにも「主張を誤解されないように気をつける責任」「誤解をできるだけ解消するような責任」という道義的な(あるいは運動論上の)責任がある(そして、かれらはそれを果たそうと日々努力している)というだけで、誤解そのものの責任は間違った情報を伝えたり広めた人たちにある。
 この点については後日別のエントリで書こうと思っているけれど、ひとつ覚えておいてもらいたいのは、セクハラの被害者や潜在的被害者の利害と、企業や大学の利害は違うという点だ。また、社員や学生は潜在的な被害者であるとともに、潜在的な加害容疑者でもあり得るから、一方的に被害者だけに有利な制度を望むわけでもない。そういったさまざまな利害のバランスの中で企業や大学はセクハラ対策を決めるわけであり、必ずしもフェミニストが望む通りの取り組みが実現しているわけではない。というより、多くの場合それは企業や大学の事なかれ主義や、担当者の保身によって歪んでしまう。
 khideaki さんが例にあげている筆坂秀世さんの件について言うならば、真実はわたしにも分からないとはいえ、日本共産党という集団の利害が優先された結果あのような結末になったんでしょ。当然、フェミニストとしては疑問に思いますよ。もしセクハラが事実でないのであれば、党内闘争の結果失脚したことを隠蔽するためにセクハラ疑惑がうまく利用されてしまったのかもしれないわけで、セクハラに真面目に取り組んでいる人から見れば迷惑な話だし、もしセクハラが事実であったとするなら後に著作で誤摩化したりできないように徹底的に事実を解明してほしかった。事実関係の解明もなく、とにかく議員辞職させて幕引きしちゃおうというのは、とにかく否定して無かったことにしちゃおうというのと全く同じ「事なかれ主義」「組織防衛」であって、フェミニストが求めて来た取り組みとは全く違う。それについて日本共産党を批判するならまだしも、フェミニストの責任にされてしまっては困るわけで。