人権啓発路線から、法的権利確立路線へ

 男女共同参画とかジェンフリとかが反発を呼んだ一つの要素として、行政による啓蒙事業のウザさがあると思う。いまでも何かというとバッシング勢力が「ジェンダーフリーの蔓延」の証拠として、東京女性財団の「Gender Free」や「ジェンダーチェック」シリーズはじめ、「新子育て支援 未来を育てる基本のき」(日本女子社会教育会)や「思春期のためのラブ&ボディBOOK」(母子衛生研究会)といった官製もしくは政府委託のパンフが(ほとんど入手どころか閲覧すら難しい現在になってもいまだに)挙げることからもそれが分かる。
 それらのパンフへの批判は多くが曲解に基づくものだけれど、民間人の立場で主張するなら問題がないことでも行政が行なうとなると問題となり得る。てゆーか、なによりウザイ。わたしたちの税金を使って偉そうな顔してわたしたちに向けた啓発事業なんてしないでくれ、という反発は、ジェンダーフリーへの賛否に関わらず多くの人が感じることだろう。だからこそ、id:discour:20060630 さんが紹介するような、フェミニズムが行政主導の「人権啓発路線」に反対して「ジェンダーチェック」刊行を阻止したという例もある。
 でも思うんだけれど、人権啓発路線という考え方自体、ある意味とっても日本的なものじゃないだろうか。米国なら雇用差別や住居差別を禁止する法律をズバッと作って、あとは自治体の人権委員会なり法廷に任せちゃうところだけれど、日本ではそういった差別禁止法みたいなのがなかなかできない代わりに人権啓発事業が行なわれる。
 人権啓発事業は、差別する心のあり方に踏み込んで、それを修正するようはたらきかける。それに対し差別禁止法のようなものは、心のあり方には踏み込まずに法的な権利関係として差別問題を解消しようとする。もちろん米国でも心の問題は軽視されているわけではないけれど、子どもの教育という場面を除いて政府は手を出さないのが原則。
 わたしは米国のヒトだし米国憲法学オタクだから、行政による人権啓発事業のようなものにはとても反感を感じる。例えば、どこぞの市で最近男女共同参画条例から性的少数者に関する項目が削除されたという話を聞いたけれど、そもそもその条例に性的少数者が含まれていたことでどういう利益があったのか分からないし、ごちゃごちゃ人権啓発やってる暇があれば雇用と住居だけでいいから性的少数者に対する差別を禁止する条例を作って欲しいと思う。
 そう考えるのはわたしだけじゃない。行政によるジェンフリパンフや男女共同参画事業への反感がここまで高まったことから考えると、おそらく日本でも最近では行政が「心のあり方」に踏み込むことを不快に感じる人が多くなってきたんだと思う。このまま人権啓発路線への反発が強まると、日本でも「人権啓発路線から法的権利確立路線へ」のシフトが起きるかもしれない。
 でも、人権啓発事業をバッシングしている人たちは、日本社会が米国みたいな、行政が「心のあり方」に踏み込まない代わりに人間関係を法と権利できっちり決めてしまうような社会になってしまっても良いんだろうか? マイノリティが法的権利を振りかざす社会よりは、人権啓発事業がいくらウザくても、マジョリティが心を開いてマイノリティを受け入れる社会の方がずっと望ましいと思わないんだろうか。
 これもまた、「ネオリベラリズムを脅威に感じる人たちが、バッシング対象を誤ることで、さらなるネオリベラリズムを招き寄せる」パラドクスの例なのかもしれない。