偏見の解消と特権意識の解体
昨日「批判と順序」で取り上げた件について続き。
「独り言 くたばれ女権主義(フェミニズム)」ブログの著者(ペンネームすらないのは面倒だ)はわたしの反論を受けた直後の21日のエントリではまだ自分のミスを全く認めない態度だったけれども、わたしが見落としていた23日になってからのエントリでは内容はともかく表現方法には問題があったと認めていた様子。
まあ正直にいえばマスクカ氏の言い分も一理あると思う
自分としてもあの記事の書き方は変であると思う
謝るというのは非常にしゃくだがまあ
素直に変な記事の書き方して悪かったと思う
まあどうも氏の名前を先に出したのは
自分なので非はなきにしもあらず
まあ前回のエントリーの主張はあれはあれで譲るわけじゃないが
しかしすっきりしない
「マスクカ」じゃないんだけど(ていうか、macska という単語の読みを知らない人は普通「マクスカ」と誤読するはずで、どうすれば「マスクカ」と読めるんだろうか?)それはまぁいいとして、一応撤回はしているようなので、前回「撤回していない」と指摘した件はわたしも撤回する(ややこしいなー)。
それよりおもしろいのは、この人が繰り返し「すっきりしない」という表現を使っていること。これは、以前のエントリにはなかった。
わたしが想像するに、この人はこれまでずっと自分の頭の中に描いた醜悪な仮想敵「フェミニスト」を叩いてきたのだろう。ところが、同じ調子で実在のフェミニストの名前を上げて批判したところ、自分でも「一理ある」と認めざるを得ないようなマトモな反論が返ってきた。そのために、頭の中にある「フェミニスト」像と、現実に対話してきたフェミニストのあいだにズレを感じてしまったのではないか。
そしてそれは、頭の中の「フェミニスト」像が虚像であるかもしれないという、この人にとっては思想的に危険な「気付き」を孕んでいる。だからこそ、「すっきりしない」と感じるのではないか。人種的偏見、宗教的偏見、性的指向による偏見など、あらゆる偏見の解消にもっとも有効なのが「現実に相手とコミュニケーションを取ること」であることを考えても、「反フェミニスト」にフェミニストの側から対話を求めて行くことは有効な戦略かもしれない。もちろん現実に、バカなフェミニストも腐るほどいるわけで、そのあたりはたくさんのフェミと対話することで「フェミにもいろいろいる」あたりに落ち着いてもらえればそれで十分。
さて、そこで前回はあえて踏み込まなかった重要なことを話そうと思う。取りあえずこの人自身は議論する気はないみたいだけどね。
重要なことというのは、この人が使っている論理の問題点。そしてそれは、以前「弱者男性」をめぐって議論した赤木智弘氏の論理にも共通する問題でもある。
「独り言」ブロガー氏は、わたしが「DV法は男性被害者にも適用されるべきだと思っている」と反論したことに対し、21日のエントリで「口だけならなんとでもいえる」として、以下のように反論していた。
自分がわざわざ「渋ってる」という書き方をしたのは
そりゃあ問い詰めれば男性被害者も救うべきというに
決まってるけど(正論だから)
でも本心では男がDVを訴えれるようになると
困るもんだから何故かそれをあとまわしにしたり
シカトしたりすることをいっているのである
つまり、問い詰められれば誰でも「男性被害者にも支援が必要」と言うに決まっているから、問題は「男性被害者の支援に賛成か反対か」ということではない。口先で賛成というのは当たり前として、じゃあ実際に何をやっているのか、男性被害者の支援を渋っているのではないか、という批判だ。そして、こう言う。
で、結局小山氏が日本のDV運動の現状をしっているのにも
関わらずそれをとめようとしたり、積極的に批判する(男性に適用させるべき)
ことをしようとしないならやはり
渋っていると自分は思うよ
まあでももし小山女史が積極的にそういう主張を
声を大きくして言い、日本のDV運動に良い意味で影響を与えたら
そのときは書くかもしれん
これはどういう意味か。いま以上に男性支援を積極的に訴えろというのであれば、それは「男性支援を最優先事項にせよ、さもなくばお前は男性差別主義者だ」ということになる。これは、女性や在日コリアンや障害者や被差別部落出身者といった社会的弱者一般への支援をことごとく否定し、当人を含んだ「弱者男性」の支援を最優先しろと要求するーーそして、それに反論したわたしを一方的に差別主義者、新自由主義者、営業左翼などと決めつけ罵倒したーー赤木氏の論理と同じだ。
なぜかくも「男性」ばかりがあらゆる問題において優先されなければいけないのか。そして、なぜフェミニストは「自分の言う通りにしないと男性差別主義者とみなして攻撃するぞ」と恫喝されなければならないのか。それこそが、男性中心主義社会における不当な優先順位の配分の積み重ねによって築き上げられた、特権的扱いを受けることが当然の権利と感じる意識、すなわち特権意識のなせるわざだ。フェミニストはそうした特権意識の解体を目指しているのであり、恫喝によって特権意識に従わせようとするのは筋違いも甚だしい。
だいたい、「口だけでは何とも言える」と他者を批判するのであれば、自分はいったい何を行なっているのか。何の行動も起こさずに、不十分ではあっても何かの行動を起こしている人を外から口先で批判しているだけではないのか。自分だって何もしていないのに、自分よりはるかに行動を起こしている人にここが悪いあそこが悪いと指図だけできると考えるのも、特権意識によるものだ。
DVの男性被害者に対する支援体制が遅れているのは事実で、それは改善すべき。でもそれを、これまで全く資金も人材もなく警察すら頼りにならなかったところから運動を築き上げてきた人たちだけの責任にすることはできない。社会全体で取り組まなければいけないはず。また、男性だけでなく、障害者や外国人やクィアのDV被害者が安心して入れるシェルター施設も足りないのが現実で、男性支援だけを最優先にはできない。
もし「独り言」ブロガー氏が単に「フェミニズム叩き」のネタとして「男性被害者」のことを取り上げただけなのではなく、本心から男性被害者の支援の必要性を感じているのであれば、そうした支援を実現すべく自分からまず動いてみてはどうだろうと思うのだけど。