売春者への蔑視発言をめぐる議論(3)

 事情により昨日の飛行機にのりそびれたので、翌日早朝の便に乗ることに。目的地に到着2時間後に講演して、その次の日の朝にすぐ帰ってくるという過酷なスケジュール。
 それはともかく、yukiさんがわたしのエントリに何か反応しているようなので、まだ月曜日だけど火曜日のエントリとして書いておく。どうせ明日は書かないし。
 まずは、わたしが書いた部分。

差別に反対するという側が、論拠も示さずに一方的にそれを差別と決めつけ、異論をトートロジーで退けるという、yukiさんの行動を批判しているのね

 それに対する反論らしきもの。

なに言ってるんだろ、この人。「差別に反対するという側が論拠も示さず」って「差別という言葉が妥当ではないという意味を含んでいる」とわかっているのに、意味を含んでいるというのも変だけど、つまりは不当とわかっている、それは自分でも書いている通り。なのにトートロジーだとかいって論拠を示せってバカじゃなかろうか。差別は不当なんですよね?じゃあ論拠を示す必要などありますか?差別行為が是が非かなど議論の対象にしている方がおかしいんですよ、わかってます?そのへん。自分の頭のイカレ具合を。差別行為は非です。それを必死で正当化しようとするからおかしくなる。どう頑張っても正当化できません。

 なんかもう、いくらなんでもこんなに読解力がない人だとは驚いた。わたしは「差別は不当だと合意されているからこそ、何が差別なのかをめぐって議論の余地がある」、と一貫して言っているわけですよ。もしyukiさんが、「売春者に対する蔑視発言」を差別だと言うのであれば、yukiさん自身がそう断言するだけでは不十分なの。
 yukiさんは「売春者に対する蔑視発言」は明らかに差別だろうと思っているだろうし、わたしも(差別という用語を一般的な意味で使用するなら)それに同意するのだけれども、そうした見解は社会的に広く合意されるところまではきていない。その証拠に、少なからぬ人が、「売春者に対する蔑視発言」は差別とは思わない、なぜなら〜、と主張しているわけ。
 つまり論点となっているのは「差別は良いかどうか」ではなく「売春者に対する蔑視発言は『差別』かどうか」であり、その点については未だに討論当事者同士のあいだで合意が成立していない。合意されていないことを、まるで誰もが認める自明な事実であるかのように前提としなければ、yukiさんの主張は論理的に成り立たないのね。結論として訴えたいことを議論の前提に忍び込ませる論法をトートロジーと呼び、どんな大声で主張しても議論上まったく意味を持ちません。
 さらに悪いことに、yukiさんは論理の欠如を大袈裟な罵倒や侮辱発言によって埋め合わせようとしている様子。それはもちろん、自らの不快感を「公共の利益」にすり替えて売春者を差別する論者とよく似たパターン。そして、今回のエントリに見られるように、批判者を侮辱し罵倒したいがために、普通に冷静に読めばありえないような誤読までしてしまう。まるで、yukiさんが実は差別主義者で、反差別運動の印象を悪くしたいがために醜悪なステレオタイプを演じているのではないかと思ってしまうなー。
 トートロジーの例としては、こんなのも。

「売春婦だったことを理由にそれを持ち出してきて侮蔑する」のは差別行為として自明なんですよ。人間の人間に対する直接的な差別行為なんだから。

 そりゃ、「売春婦だったことを理由にそれを持ち出してきて侮蔑する」のが「差別行為」だという前提が成り立つのであれば、結論として「売春婦だったことを理由にそれを持ち出してきて侮蔑する」のが「差別行為」であると導き出されるのは当たり前。「今年タイガースが優勝するならば、今年タイガースが優勝するだろう」というのと同じで、言明自体は文句なく正しいけれども、実際にタイガースが優勝するのかどうかとは全然関係ない。
 ところがこの先、yukiさんはこう言う。

それをされて当然だ、差別ではない、という言論も差別。これを疑う人は差別主義者だと決めつけられても仕方がない。

 もしかすると、事実「差別ではない」という言論も差別であり、それを疑う人も差別主義者かもしれないよ。そこまで仮に受け入れたとしても、それでもまだ元の「売春者に対する蔑視発言」が差別であるという主張の論拠は空っぽなまま。その空洞を埋めない限り、「自分の主張を前提にすれば、自分の結論は正しい」というトートロジー以上のものではないということ。
 だいたい、自明だ自明だというけれど、「それには納得いかない」という人が一定数出て来た時点で既に「自明」じゃないでしょうが。「差別の定義には、やってはいけないということが含まれる」というなら、「自明の定義には、誰も疑いを抱かないことが含まれている」だよ、まったく。
 さて、あと1時間後に空港に出発だ。