売春者への蔑視発言をめぐる議論(2)

 「『いかなる理由があっても差別してはならない』というトートロジー」を書いた途端に、なんだかすごい反応。これだから口をはさむのを躊躇したんだけど、巻き込まれてしまったものは仕方がない。いくつかお返事。
 まず前エントリについたyukiさんご本人のコメントについて。

売春が悪かどうかと、売春婦を差別してよいかは別問題。皆ここを混同してる。差別心と差別行為も別。これも混同してるっぽい。で、差別が不当かどうかという理由があげられてないとのことですが、それは差別の意味を理解していないのだと思います。差別というのは不当なものですそもそも。だから差別なんですから。不当なんだからいけないに決まってますよね。差別という言葉そのものが不当をあらわしているんだから。なので不当じゃない理由なんてあげる必要もないんですよ。妥当な差別なんてないんですから。なにが言いたいのはよくわかりませんが、売春か悪かどうかは好きに論じればいい。で、あなたは売春が悪かどうかが争点で、悪なら差別が妥当であるとしたいんでしょう?違いますか。そこを論じたいんじゃないですか。売春が良いか悪いか。それを理由にできると思ってる。ちなみに私は悪と思わないですが、売春が悪だろうとなかろうと、それと実際に侮蔑を投げることは別です。売春が悪だから差別は妥当なんてありえないんですよ。たとえ売春が悪でも、それはそれ。それを理由に差別を正当化できない。売春婦に言われたくない立場をわきまえろ卑しいさもしい心から軽蔑する、そんな言葉を投げれば、それは差別だし妥当じゃない。

 本人ご降臨どうもです。
 一点目、売春が悪かどうかと売春婦を差別して良いかどうかは別問題というのはその通り。皆それを混同していると言うけれど、少なくともわたしはしていない。また、差別心と差別行為の違いについてもyukiさんの主張は理解しており、混同していない(仮に混同していたとしても、わたしの議論には関係ないけど)。
 二点目、差別という言葉そのものが不当なものであるという意味を含むのだから差別は論じるまでもなく不当であるというのはトートロジー。たしかに、差別という言葉をそのように定義するのであれば、差別をして良い理由なんてあるわけがない。しかし「売春婦に対する蔑視や偏見を言語化すること」が差別であるということがきちんと論証されていない。
 三点目、それに関連して、ある行為が差別であることが自明であり、それを疑う人は差別主義者だという決めつけが非常に問題。なぜなら、そういう議論様式を用いればどんなに妥当な批判でも黙らせることが可能となってしまうから。
 四点目、わたしは「売春が悪なら差別が妥当」とは言っていないし(そもそも、差別という言葉は妥当ではないという意味を含むので、そういう主張は不可能)、売春者を侮辱するような発言が差別的ではないと言いたいわけではない。差別に反対するという側が、論拠も示さずに一方的にそれを差別と決めつけ、異論をトートロジーで退けるという、yukiさんの行動を批判しているのね。
 最後に、わたしは売春者に対する侮辱発言は差別的であると思っているし、差別ではないとする論者に対する個別の反論もある。そうした議論内容よりも、yukiさんの議論様式の方が問題が大きいと思ったのでそちらに限ってコメントしたけれど、わたしの立場を明示しないままyukiさんの側の問題だけ取り上げたのはフェアではなかったかもしれません。少なくとも、きちんと説明していればわたしの動機を詮索されることはなかったでしょう。その点だけはごめんなさい。


 次は、同じくコメント欄のtakisawaさん

売春者を侮辱することが差別に当たるかどうか、という論点であれば、どう考えたところで、一方的にid:yuki_19762さんが正しい。それは差別です。
もし、売春婦を侮辱することをみんなが差別ではないと、本当に言っているのならば、それは、全員が莫迦だからです。
売春者を侮辱することが差別ではないと言うのなら、それは何だと言うのでしょう?
何故にこんなに議論の余地なく明白な差別に対して、差別にあたるのかどうかが論点に成り得るのかがわからない。

 「売春者を侮辱することが差別に当たるかどうかであれば、それは差別です」という点には同意。ただし、それが「議論の余地なく明白」だという合意が成立していない。つまり、あなたが自明だと思うことでも、他の人にとっては自明ではない。「こういう理由により、売春者に対する蔑視発言は差別とは言えない」という人がいるのだから、その理由がどう間違いであるのか具体的に反論すべき。「議論の余地なく明白に差別」という勇ましい決めつけは、ただ単に自分が議論から逃げているだけ。


 ついでに、takizawaさんのブログにもわたしへの反論がある。

売春者を侮辱することが、差別かと問うならば! 問うならば! それは明らかに差別ですよねぇ?
 そう、明らかに差別でしょう。それを差別ではないと強弁したって、それは差別と言われるよ。実際に差別なんだから。
 売春者を侮辱することが差別ではないと言うのなら、それは何だと言うのでしょう?
 何故にこんなに議論の余地なく明白な「差別」に対して、差別にあたるのかどうかが論点に成り得るのかがわからない。
 論点も何も決定的に差別だよ。莫迦じゃなかろうか。

 いやー、すごいな、これ。自分が下した一方的な断定を、ただただ何の根拠も述べずに何度も繰り返し唱え続ければそれで済むとでも思ってるんだろうか。そんなに明白に差別だと思うなら、「こういう理由により、差別ではない」という相手の「理由」を片っ端から論破してやれよって思うんだけど。

よく聞く「差別と区別は違う」という偏差値があまりにも低い言説はどうにかならないものかと思う。

 せんせー、たきざわさんが、へんさちをりゆうにひとをさべつしていますー。

「差別の中で、悪いものは差別と言い、悪くないものは区別と言う」などというのなら、最初から素直に「悪い差別」と「悪くない差別」と言えばいいじゃないか。

 そう言っても別にいいよ。でも、仮に差別の中に「悪い差別」と「悪くない差別」が存在するという考え方を採用するのであれば、当然ながら「どんな理由があっても差別は悪いから、差別しても良い理由なんてない」という言明は成り立たなくなる。こっちはわざわざ、「どんな理由があっても差別は悪い」という、yukiさんの規定に沿って議論に応じているのに、なんでいまさらお互い違った定義で議論しなきゃなんないのか分からないなー。

正しいと思うのであれば堂々と「良い差別だ」とか「正しい差別だ」と言えばいいのだし、正当であると思うのであれば「正当な差別だ」と主張すればいい。
 後ろめたさから「区別」などと言い換えをしておいて、指摘されたら「差別とは違う」などと言い逃れようとするなど、なんとさもしい根性だろうか。

 差別に「良い差別」と「悪い差別」があるとすれば、差別というだけで「うしろめたさ」を感じることはないはず。「うしろめたさ」が差別につきまとうのは、「良い差別」という概念が成り立たないからであって、成り立たない概念を掲げた主張をすべきだと他人に押しつけるのは無茶苦茶。
 だいたい、相手が「後ろめたさ」から「差別ではない」と主張している、と決めつけるのはおかしい。「差別と区別」というレトリックが差別の隠蔽によく使われるというのは事実だけれども、「売春者に対する蔑視発言は差別ではない」と言っている人たちは、ほんとうに全然うしろめたさを感じていないんだと思うよ。「差別ではない」という言明の裏にうしろめたさがある場合もあるけれど、そうでない場合だっていくらでもある。たとえば、米国で昔あった奴隷制度というのは現代の基準では明らかに差別なわけだけど、当時の白人奴隷所有者たちのほとんどはそれを差別だとは認識していなかったよね。それは、かれらが奴隷制度をごく自然で当たり前のことと思っていたからであって、うしろめたさを感じていたから「差別ではない」と強弁していたわけじゃ全然ない。

もし、売春婦を侮辱することをみんなが「差別」ではないと、本当に言っているのならば、それは、全員が莫迦だからである。

 普通、バカというのは、論拠を述べずに自分の頭の中にある結論だけを繰り返す人のことだけどね。


 さらに、yukiさんのブログの新しいエントリでも反応がある。

『売春者を侮辱することが「差別にあたるのかどうか」が論点となっている』

 単純に吃驚した。噛み合ないわけだと思った。「売春婦を侮蔑しても差別じゃない」と思い込んでいる人はどうやらいるらしかった。コメント欄ではぺんぺんとか日々是がずっと「差別じゃないのに差別と言っている」と言いはっていた。でも、皆そうだったの?一部のバカだけだと思ってた。『差別に当たるのかどうか』って。『売春婦を侮蔑』するのが『差別』じゃなくて何だと?議論が必要なことか。差別の意味をまるでわかっていない。この人たちはやはり娼婦を人間だとは思っていないのだろう。誰も娼婦の心など省みずに、あろうことか「侮蔑するのが差別に当たるかどうか」を論点として議論していたとは。

 わたしは議論全体を見たわけじゃないから、全員が「差別にあたるのかどうか」を議論しているかどうかは知らない。yukiさんのエントリの周辺を見回したところ、そういう議論がたくさんあるのに、yukiさんがそれを「理由があれば差別はOK」と誤読しているから議論が噛み合っていないと思ったわけ。
 「議論が必要なことか」と言うけれども、「差別にはあたらない」という人がいて、かれらを片っ端から抹殺するわけにもいかないのであれば、議論によって説得するしかないでしょうが。もちろん、被差別者がそうした議論のコストを支払わされることは不公平だけど(その点は前エントリで既に書いている)、社会的な差別意識(差別的なことなのに、差別だと意識すらされない)を変えるためのいい方法が他にないわけで。
 「やはり娼婦は人間だとは思っていないのだろう」「誰も娼婦の心など省みない」というけれど、これまで差別と闘ってきた人たちはみんなそういう不当な状況において議論を通して差別をなくしてきたのね。もちろん、そんな議論自体が不当だと批判して差別だ差別だと叫び続けただけの人だっていただろうから、そういう意味ではyukiさんは別に何ら新しいパターンでもない。っていうか、そういう人に対して「あなたのやり方は差別をなくすための議論を阻害する」と批判しているわたしだって、もちろん昔からあるパターンをなぞっているわけだけどね。

『差別の問題として語るべきではない』?差別なのに?娼婦は、自身が侮蔑してもいい対象かどうかを、他人に論じられることさえ受け入れねばならないのか。あなたは自分がその立場に立たされたらどう思うのだ?身体が震えるほどの怒りを感じないか。

 髪の毛が金髪になって逆立ちそうなくらい怒りを感じる。自分が侮蔑してもいい対象かどうかを他人に論じられるなんて、わたしには到底受け入れ難い。でも、議論すらなく、他人が疑問すら抱かずに自分を侮蔑してよい対象として扱い続けることはもっと受け入れ難い。だからこそ、そういう状況を変えるために、あえてそういう議論に参加して、相手の主張を打ち砕く必要を感じているの。
 yukiさんがそういう場に参加したくないなら、無理に参加しなくて結構。でも、だったら差別者の側を刺激するだけして議論を放り出すのはやめてくれないかな。


 って、煽っておいてナンだけど、今日から3日間旅行なのでこの続きは木曜日以降。