ひきつづき「新しい無神論者」エントリへのコメントにお応え

 ひきつづき、本家エントリ「『新しい無神論者』の非寛容と、ほんの少しの希望」へのコメントへの回答を続ける。
 a-geminiさんは、ドーキンスに関するわたしの記述がミスリーディングだと批判している。「ブクマコメントに一斉お応え」の弁明を読んだうえで、それでも納得がいかないとして次のように言う。

一番変だと思ったのは最初の文書の以下の箇所。

ドーキンスらによれば、肝心なことは理性を尊重し、根拠の無いことを事実だと信仰しないことだという。たとえばスターリンら共産政権の指導者たちはたしかに無神論者ではあったかもしれないが、恐怖政治や個人崇拝の制度を作り、かれら自身が信仰の対象−−理性の審判を受け付けないもの−−となってしまったために間違いをおかした。すなわち対象が神であれ指導者であれ問題なのは信仰であり、理性こそ世界のあらゆる問題に対する答えなのだという。

こうしたユートピア思想と選民思想(自分たちこそ最も優れた人間であるという思い込み)は、わたしが参加しているグループにおいても頻繁に感じた。

前半の文章がどうして「ユートピア思想と選民思想」に繋がるのかサッパリ分からない。「理性こそ信頼すべきものである」という主張は、「理性さえあれば理想の社会が築ける」とか「理性を持った者こそが世界の支配者になるべきである」といった主張とは全く別物である。
http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_c8ac.html

 「ユートピア思想」についてはたしかに論証が不十分でしたが、わたしがその語で指し示すものは、エントリ「わたしは左翼であるのかないのか、あるいは経済学をこのブログで取り上げる理由」で紹介した「非束縛的価値観」に相当しています。別の機会にきっちり論証したいと思いますが、わたしには「新しい無神論者」の多くは非束縛的価値観を暗黙の前提としているように見えるし、過程における不寛容さや鈍感さはそうした価値観のなせるわざだと思うのです。
 「選民思想」については文中でわたしの言わんとするところを説明しているのでそれで十分だと思いますが、念のために言っておくとこれはもちろん比喩的表現です。無神論者は定義上神の存在を信じないのだから「自分たちは神に選ばれた人間だ」と思うわけがないし、文脈上そのように解釈する余地はないと思います。
 第二の部分については、日本版の該当箇所を長めに引用してくださっているので、a-gemini さんの言う通り「各自判断されたい」。
 あ、ひとつだけ。ドーキンスからの引用で「実際のところ、ワラックのこの本につけるのならば、『イスラム穏健派という神話』のほうが適切だったかもしれないが」という部分がありますが、これはおそらく誤訳です。ワラックの主張は「イスラムに穏健派は存在しない(穏健派とされる人たちは実はそれほど穏健ではない)」ではなく、「イスラムは本来穏健な教義を持つ宗教であるという主張は間違っている」というものですから、「穏健なイスラムという神話」と訳されるべきです。


 続いて、わたしが「無用な印象操作がある」とした optical_frog さんのコメントを取り上げる。

さて,疑わしく思った点はいくつかありますが,いちばん具体的な例は記述語の選び方です.新しい無神論者たちを地の文で記述するとき,もっと中立的な表現があるはずなのに宗教的な含みのある表現を選択しておられる箇所があります:
(a) 無神論者たちのミーティングについて,「信仰共同体的なものを求めている人は多い」と書いておられます.ですが,その後の文を見ますと,彼らはたんに人との交流・つきあいの場を求めているだけのようです.何か「信仰」というべきものがあるのでしょうか.ないのならこう書くべきではなく,あるのならどういう信仰なのか説明した方がよいでしょう.
(b) 無神論者たちに「ユートピア思想と選民思想」がみられると書いておられます.前後から考えて,「ユートピア思想」とは理性的アプローチ(証拠と論理の尊重)によって問題解決をはかる態度(「理性こそ世界のあらゆる問題に対する答えなのだ」)であり,「選民思想」とは無神論者たちが信仰者たちに抱いている優越感を指しているとぼくは解釈しました.この解釈でよいとして,それならどちらも「理性尊重」や「信仰者への優越感」とでも言えばよいのではないでしょうか.macskaさんがお使いの表現はおおげさで,しかも余分な含意をもっているのではないでしょうか.
まとめてみましょう.それぞれの対で,前者は macskaさんの記述,後者はその代替案です:
「信仰共同体」 : 「人との交流」
ユートピア思想」 : 「理性の尊重」
選民思想」 : 「優越感」
http://d.hatena.ne.jp/optical_frog/20080427/p1

 まず(a)から。結論から言うと、ここは「信仰共同体的なもの」よりふさわしい表現はないと思います。なぜかというと、無神論者たちが求めているのは単なる「人との交流」ではなく、かれらが信仰者であった頃、あるいは少なくとも無神論者であることを公にせず信仰者のふりをしていた頃、信仰共同体に属することによって得ていたものだからです。
 そしてまた、それが「信仰共同体的なもの」であるからこそ、単に信仰を捨てただけでなく「信仰共同体的なもの」に背を向けた無神論者にとっては、この団体の活動すら隠避すべきものとして受け取られています。わたしは本文中で「信仰を捨てたが信仰共同体的なものを求める無神論者」と「信仰共同体的なものを拒絶している無神論者」の対立について述べていますが、もし単なる「人との交流」であったなら、そのような対立は起こりえなかったでしょう。
 したがって、ここでは「信仰共同体的なもの」と表現するのがもっともふさわしいと考えます。もしかしたら optical_frog さんは「的なもの」という部分を読み飛ばしているのではないでしょうか。
 (b) については、a-gemini さんにも言われて気がついたのですが、わたしは「新しい無神論者」に見られるユートピア思想を十分に論証していませんでした。わたしが言わんとするのは、単なる方法論としての「理性の尊重」ではなく、非束縛的な人間観を暗黙の前提とした理性や科学への過度の期待・信頼であり、まさに「ユートピア思想」と表現するのがふさわしいものです。「新しい無神論」とユートピア思想については、別の機会に掘り下げたいと思います。
 最後の「選民思想」ですが、これは確かに「優越感」と言い換えても良さそうです。しかし a-gemini さんへの返答にも書きましたが、「選民思想」と書いたところで、「無神論者たちは、自分たちが神に選ばれたと思っている」という風に解釈する人がどこにいるでしょうか。印象操作を疑われるほどの弊害のある記述だとは思えません。「印象操作をしている」という印象を与えないようにきちんと印象操作しろよ、ということでしょうか。


 ご意見ありがとうございました。