ひきつづき「新しい無神論者」エントリへのコメントにお応え(2)

 a-geminiさんが早速お返事くださっています。

アメリカとイスラム国家の対立の「原因」として、「 国際的な経済体制や過去の植民地主義、貧困や米国の軍事政策」を無視するのは馬鹿げたことですが、ドーキンスが論じているのは、そのような対立の「原因」ではなく、自爆テロのような過激で狂信的な行動に走らせる「原因」であると解釈するのが自然だと思います。
http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/mascka_ed74.html

 わたしもそのつもりで書いていたのですが、書き方がまずかったでしょうか。
 そのうえで、自爆テロのような行動に走らせる最後の後押しの部分だけに注目して、そもそもどうしてそこまでかれらが思い詰めているのかを無視することの(まるで宗教がなければ思い詰めることもないかのような)政治性を批判しています。

無神論者の「非寛容性」に対する批判は、よく目にしますが、あまり意味のある批判だと思えません。無神論者が「非寛容」であるとすれば、それは宗教の「非寛容性」に対してです。

 いや、それはわたしが批判する種の「非寛容」とは違います。読み返していただけると分かると思いますが、わたしは「無神論者は宗教に対して非寛容でけしからん」とは言っていません。
 わたしが主に懸念するのは「信仰vs無神論」という構図においての相互「非寛容」ではなく、人種・階級・国籍といった分断による(典型的には、米国における黒人やメキシコ人、イギリスにおけるパキスタン人、フランスにおけるアルジェリア人、ドイツにおけるトルコ人らに対する)「非寛容」を隠蔽し、あるいは正当化する方向に、無神論や世俗的ヒューマニズムという西欧中心主義的・理性中心主義的な普遍主義が作用することです。
 このあたりは、「α-Synodos(アルファ・シノドス)」3号(5月10日発行)の記事でもう少し書きます(宣伝♪)。

無神論者が既存の価値観(の一部)を否定するとしても、生物学的な制約までは否定しないでしょう。

 それはその通りです。「束縛的価値観/非束縛的価値観」というのは誰もがどちらか一方に分類できるという意味ではなくて、そういう対立する大きな傾向があって、ほとんどの人はどちらも持ち合わせているけれども、その割合が人によって違う、という前提で話しています。「新しい無神論者」はその中でも特異なポジションを占めているとわたしは思うのです。

というヘッジズの指摘も、無神論者に対する批判としては典型的なものですが、的を射たものとは思えません。ドーキンスは「神は妄想である」において、「宗教のダーウィン主義的な生存価」という観点から、なぜ宗教のような一見不合理で矛盾していると思われるものが存在するのかを検討しているのですから。

 しかし、ドーキンスは「宗教のダーウィン主義的な生存価」は進化的時間において意味を持ったかもしれないが、現在社会においてはむしろ弊害の方が大きく宗教なんてなくなった方が良いという考えですよね。ていうか正確には、ドーキンスは宗教そのものにそういった価値があるとはみなしておらず、生存に有利だったほかの要素の副産物に過ぎないみたいな扱いのように思いますが。

結局のところ、私にはmacskaさんが宗教に関してどういう立場をとろうとしているのか、よく分かりません。キリスト教イスラム教もダメ、無神論もダメ。となると、「中願派仏教」で行こう、ということなのでしょうか。

 わたしは無神論者です。信仰を持つ人に無理矢理それを破棄させたりするべきではありませんが(また、そんなことしても無意味ですが)、社会の方向としては宗教が果たしている社会的機能が哲学や文学や芸術などによってとってかわられればいいなぁと思っています。
 ドーキンスは科学や理性ばかりを強調しすぎると思いますが、「信仰か理性か」ではなく、「信仰ではないけれども、理性のみに支配されない」領域を大切にするべきだと思います。

まして、宗教に関しては日本人的なアイマイな立場を取り続けるのが吉だ、というのでは、宗教に対する有効な批判ができるとは思えません。

 えー、わたしはドーキンスの宗教批判については大部分賛成なんですけど…


 とにかく、上で書いたように「α-Synodos(アルファ・シノドス)」3号で今回の記事の続編(のようなもの)を書くので、みなさん購読してくださいね♪
 ご意見ありがとうございました。