「働いたら負け」状態は社会の責任、かもしれない
赤木さんと杉田さんとの論争に某お兄様がコメントを寄せていて、以下は元の論争というよりは、お兄様のコメントへのコメント。
弱者問題でいえば、「やる気がない」とか「努力が足りない」と弱者の内面を探ることと、弱者が貧困に苦しんでいる現状とは、きっちり分けて考えたほうがいいと思います。そうしないと、弱者に貧困をもたらしている社会的な原因(政策や政治家の愚)が、弱者の内面の問題を指摘する、すなわち「あいつが貧乏なのは、自分がいけないからなんだ」ということで、ほんとうの責任の所在があいまいになってしまう可能性があるでしょう。
そうなると、弱者の内面の問題が自己責任の問題として為政者に利用され、自己責任なんだから政策や政治家は悪くない、というネオリベ的な弱者排除の発想につながっていくような気がしてなりません。
きっちり分けて考えるのはある意味では良いのだけれど、あんまりきれいに分けると貧困だけでなく「やる気のなさ」にも社会的な原因が作用していることを隠蔽してしまう危険もあると思う。「努力が足りない」ことを責めることに正当性があるのは、「努力すればそれに相応しい形で報われる」という前提があってこそ。前にも書いたように、努力してもペイしないのであれば(投資に対して期待されるリターンが1:1以下なら)、努力しないのが合理的。いわゆる「働いたら負けかなと思っている」状態。
もしそういう状況を社会が弱者に強いているのであれば、「弱者の内面」の問題はすなわち社会の問題であって、「弱者の内面と社会の状況を分けて考えろ」とは言えなくなるのではないか。努力するインセンティヴを奪っておいて(あるいは剥奪状態を放置しておいて)「やる気のなさ」を個人的な問題と決めつけるのは不当。
それはともかく元の議論の赤木さんについては、やっぱりああいう考えなのね… かれにとって「フェミ」とは、上野千鶴子さんに代表される学界エリートだけしか見えていないんじゃないかな。