修辞的疑問と、論法の誠実さ

 ちょっと前のエントリのコメント欄で起きたやり取りについて、id:takoponsさんがコメントを書いている。(追記:お名前を間違えていたので、訂正しました。ごめんなさい。)

私は直前のコメントで、『1つ、確認させてください。macskaさんは、「takoponsは不誠実で失礼な人間である」ということにしておきたいのでしょうか?』と質問しました。この質問に対するmacskaさんからの回答を待って、その後の議論に応じようとしていた可能性は考えられなかったのでしょうか?
http://d.hatena.ne.jp/takopons/20080805/1217872800

 そうした可能性は考えられませんでした。わたしは、あなたの論法が不誠実だと言っているのに、「いや、自分は自分なりに誠実に議論をしているつもりで、不誠実なつもりはない」と弁解もせずに、「あなたはそういうことにしておきたいのですか?」と聞かれても、その質問を文字通りに受け取るのは不可能です。
 どうしてそれが不可能なのか説明しましょう。わたしが「あなたの論法は不誠実だ」と言うとき、それは (1) わたしが本当にあなたの論法を不誠実だと思っている、(2) わたしは本心ではあなたの論法が不誠実だとは思わないけれども、あなたが不誠実であるということにしておきたいと思っている、の二つの可能性が論理的にあります。しかし、もしわたしの本心が(2)であるなら、「あなたの本心は(2)ですか?」と聞くのは無意味です。もしわたしの本心が実は(2)だったとしても、「いやわたしの本心は(1)だ」と答えるに決まっているわけですからね。
 つまり、あなたの「質問」に対する答えは論理的に一つしかありえず、そのことはあなたにも容易に想像可能です。どちらにしても答えが一つしかありえない質問をあえてするときは、それは相手の回答を求めて質問をしているのではなく、質問という形式を取りつつ、何らかの主張や意志を表現しようとしていると解釈するのが普通です。こうした表現方法は、「修辞的疑問」と呼ばれます。わたしは、あなたの「質問」は修辞的疑問であると解釈したのです。
 さて、あらためて「修辞的疑問ではなかった可能性は考えられないか」と聞かれて考え直してみると、もう一つだけ別の可能性もあったように思えてきました。それは、ただ単にあなたが表現が下手あるいは論理に弱いために、意図せず「修辞的疑問にしか読めない質問」をあなたが書いてしまった可能性です。
 その当時はその可能性は考えませんでしたが(というか思いつきませんでしたが)、本人が「ただ質問への回答が欲しかっただけだ」と言うのであれば、それを信じましょう。これまでの議論を一度リセットして、takoponsさんの今回のエントリから再開させてください。(とはいえ今後は、そのような質問は修辞的疑問とみなされることに注意を払って文章を書いてくださいね。)
 で、議論の中身。

上記のような条件付きではありますが、「幻想」も「信頼」も、貨幣について言うときも神について言う時も、それぞれ同じ意味で使っているつもりです。逆に伺いますが、「違った定義で使っている」とは、いったいどのように違っているのですか? もしよろしければ教えていただきたいです。

 ええと、takoponsさんとのやり取りをもう一度読み直してみたのですが、行き違いの原因がどうやら分かってきました。
 わたしは、ドーキンスの用法に従い、「信頼 trust」と「信仰 faith」を区別して使っています。ドーキンスは何らかの再現可能な経験則や根拠をもとに何かを信用することを「信頼」と呼び、主観的な思い込み以外に何の具体的根拠も持たない対象を信用する「信仰」から区別しています。これは特殊な用法だと思われるかもしれませんが、聖書にも「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル人への手紙第11章)と書かれていますから、これは無神論者だけが勝手に決めつけたことではありません。
 takoponsさんの「貨幣制度も信仰だと思います」という発言に対し、わたしは「いや、貨幣は信頼できるから違う」と答えましたが、そもそもtakoponsさんは「信仰」と「信頼」が違うものである、というドーキンスの用法を理解されていないのではないでしょうか。だからこそ、「貨幣だって信頼に基づいている」と言うことで、「信仰」についてわたしが書いたことに反論した気になってしまっているように思います。
 疑問点を箇条書きしてくださっているので、それに答えます。

1. 私は『1つ、確認させてください。macskaさんは、「takoponsは不誠実で失礼な人間である」ということにしておきたいのでしょうか?』と質問しました。この質問に対するmacskaさんからの回答を待って、その後の議論に応じようとしていた可能性は考えられなかったのでしょうか?

 考えられませんでしたし、その理由は上記のとおりですが、それが真意だと言うならそう考えるようにします。

2. 「幻想」と「信頼」を「違った定義で使っている」とは、いったいどのように違っているのですか?

 あなたは、「信頼」を「信仰」とほぼ同義で使っているようですが、ドーキンスの用法ではそれらは区別されるものです。
 「幻想」についてですが、「神は幻想である」というとき、それは神という言葉が指し示す対象が現実には存在しない、という意味の言明です。しかし「貨幣は幻想である」という場合、それは「貨幣が現実に存在しない」という意味ではありません。現実に存在するけれども、それが貨幣として機能するのは、社会的に幻想が共有されているからである、という意味で「貨幣は幻想である」と言っているのでしょう。このように、「神は幻想である」と「貨幣は幻想である」の「幻想」という言葉の用法は違います。
 もちろん神についても、貨幣が機能しているのと同じ意味でなら「神の機能」は認められます。たとえば、神を崇めるために人々が教会を建てたり、信仰に動機付けられた信者が教義に従って生きることは、神が現実に存在するかどうかに関わらず可能です。しかし、「貨幣って結局実体は何もないよね」と全員が思っても貨幣の機能には全く何の問題も生じないのに対し、もし「神は本当は存在しないよね」と全員が思ったら、「神の機能」は失われます。それは、貨幣は実体や本質ではなく機能によって「信頼」されているのに対し、神は「信仰」されなければいけない対象だからです。

3. macskaさんは、「お金さえあればどんな困難も克服できる」とか「金は確実に信頼できる」とかいう考えは世界中の誰も賛成しないような極端な思想であり、よほどの変人だけが賛同するおかしな思想である、とお考えなのですか?

 はい。もちろん、貨幣さえあればいろいろ自分の欲しいものが手に入り、貨幣が足りないばかりに辛い思いをすることも多々ある社会に住んでいるわたしたちは、しばしば貨幣が万能でないことを忘れることがあります。しかし、それは普段「貨幣が万能でないこと」を頭の中で反復していないだけで、「お金がどんなにあってもどうしようもない物事だってあるのではないか」と聞かれて「いや、そんなことはない、必ずお金で解決できる」と答える人がいたとしたら、それはよっぽどの変人だと思います。

4. なぜ、「信仰者でない人から見れば思い込みでしかない」という言い換えが不誠実なのですか?

 既にいいちこさんへの返答で書いている通りです。
 しかし、

「○○という意味ではないのですか?」と質問されたら、Yes/Noで回答すれば済む話でしょう。
ある事柄についての認識を一致・共有する場合、別の表現に置き換えて「それは○○という意味ですか?」と確認するのは、誤解を減らすための誠実な行為だと私は思います。

 とtakoponsさんが書いているのを読んで、takoponsさんが修辞的疑問をしている自覚はなかったというのは本当かもしれないな、と変に納得してしまいました。なぜならtakoponsさんは、いいちこさんが使っているレトリックが修辞的疑問であることに気付かないくらいですから。
 上で説明していますが、修辞的疑問というのは、疑問文の形式を取りながら、何か言いたいことを強く言う表現方法です。たとえば「あんたバカぁ?」という発言があったとして、それを「あなたは馬鹿なのですか、イエスかノーで答えてください」という真摯な質問だと解釈をする人はほとんどいません。そんなことを言われれば、ほとんどの人は「あなたは馬鹿だ」と言われているのだ、と思うでしょう(でも実はツンデレで、ほんとうは僕のことが好きなんだ、という裏読みは別とします)。
 takoponsさんの「〜ということにしておきたいのでしょうか?」も、いいちこさんの「〜という意味ではないのですか?」というのも、わたしは「〜ということにしておきたいのだろう」「〜という意味なのだろう」という修辞的疑問として解釈しました。修辞的疑問は、一見丁寧な表現のなかに敵意や恣意的な断定を潜り込ませることができる強力なレトリックなので、そういう意図がないのであれば誤読されないように注意するべきではないですか。(修辞的疑問)