エイドリー出産記念♪

 写真では茶色のやつしか見えにくいけど、黒3匹、茶1匹、灰色1匹の5匹。


   
   


 2〜3ヶ月後に里親になってくれる人募集中。オレゴン州ポートランドに来られる人限定だけど。


【追記】写真たくさんあるよ!
http://www.flickr.com/photos/emigrl/sets/72157618159256238/

あるのはカムアウトをしない「不自由」と、カムアウトをする「不自由」だけ。

 前エントリ「カムアウトをしない『自由』はない。クロゼットは『権利』ではない。」の注記。しっかり読んでる人は別に必要ないと思うけど、しっかり読んでいない人がこんなコメント書いてるからね。

いい加減にしなさいよ 2009/08/25 03:20

丸出しカムアウトの馬鹿が叫んでるわね
他人にまでカミングアウト原理主義を押し付けないでよ
それに、だいたいクローゼットって馬鹿にしてるわね!
たんに、公表したいと思わないだけよ
ムヤミヤタラニカミングアウトする馬鹿の巻き添えになりたくないのよ。
社会不適合者のゲイリブやカミングアウト信者とは距離を置きたいの
たんなる世間知らずの丸出し歩くカミングアウトのくせしてさ

 いやぁ馬鹿が叫んでいるなぁと思うわけだけど、もしかしたらこの人は「カムアウトしない『自由』はない」というタイトルを読んで、文字通り「カムアウトしないという選択は認めない、許さない」という意味にでも解釈しちゃったんだろうか。馬鹿だなあ。わたしは、カムアウトすべきだとか、カムアウトするのは良いことだみたいなことは、まったく主張していないんだけどね。
 「カムアウトしない『自由』はない」というのは、「カムアウトしない自由なんて認めない」という意味ではないのね。そうじゃなくて、カムアウトするかしないか特定の社会集団の人たちだけが悩んだり考えたりする負担をおしつけられている社会は、その時点で既に不自由なんであって、そこには「カムアウトしなくちゃいけない不自由」と「カムアウトできない、したら面倒になる不自由」でしかないわけ。
 自由なのは、カムアウトする必要性を持たないどころか、カムアウトするかどうかという選択肢から免除されている、多数派の人たちだけ。異性愛とそれ以外という側面に限って話をすれば、自分の性的指向を公に言いたければ何の恐怖も不安もなく言うことができ、言わなくても何の不都合も不便もない、異性愛者たちだけが自由だということ。
 かりに、ある異性愛者が「むやみやたらに」周囲の人たちに「自分は異性愛者です!」と言いふらしても、白い目で見られるのはその人個人だけ。そのことで「巻き添え」になって被害を受ける異性愛者なんて、どこにもいない。また、自分が異性愛者であることをわざわざ公言しなくとも、誰も「クロゼットに入っている」とは思わないし、仮にそう言われても誰も馬鹿にされたとは思わない。でも、同性愛者が「むやみやたらに」カムアウトすると自分が被害を受けるのではと心配したり、クロゼットという言葉は自分を馬鹿にしていると感じる人(このコメント主)が、現にここにいるわけ。
 それはやっぱり、カムアウトしない(公表しない)ことが、この人にとっては「自由」ではなく「不自由」であることを示していると思うわけね。というとまた誤読する馬鹿がいるような気がするのでもう一度念を押しておくと、カムアウトしたら自由だけどカムアウトしないのは不自由、という意味じゃないのよ。そもそもカムアウトするかどうかという選択が社会的少数派の側だけに押し付けられていて、自分の選択のみならず、周囲にいる自分以外の「同類」の選択までもが自分の生活に大きな影響をもたらすということが、既に不自由なの。


 ついでにブクマコメントにコメントしておく。

ululun Gender 「社会のせい」と言っておけば楽だものね。 言うという選択以外に「社会」を変える方法は無いと思うよ。 「私」は自分の事で言うか言わないかを決めるのは「私自身」の選択だ、と思っている 2009/08/19

 「社会のせい」と言えばどう楽になるか分からない。自分が変わるのも社会を変えるのも、どっちも決して楽ではないと思うんだけど。まあ確かに、「社会のせい」だからどうしようもない、と諦めるだけなら、楽かもしれない。

tari-G 閉塞を強いる社会がおかしいのは事実だが、それでも、それだけに、あくまで「クロゼット」は非常に大事な権利なんだ。 2009/08/19

 それを権利と呼びたいなら別に構わないけど、銃を向けられて「あなたは抵抗せずにおとなしく財布をわたしに渡す権利があります」みたいなイヤな「権利」だと思う。少なくとも、銃を向けている多数派の側が言うべきことではない。

kokogiko この辺に例のカルデロン事件⇒反排外主義デモ⇒反日上等を巡るイザコザの根もある気が。どっちか間違ってるんじゃなくてどっちも正しい、適用すべきTPOが違うだけで。原理的に一方を攻撃しなければ、共存できるはず。 2009/08/19

 うーん、わたしはもうちょっと「反日上等」やってる人たちに批判的。反日上等そのものは別にどーでもいいけど、それより先にやるべきことあるだろと。てゆーかもはや、在特会周辺の騒動自体、在特会という非常に分かりやすいバカみたいな敵が登場してくれて、サヨクのみなさんよかったですねー、くらいしか思えない。

hal9009 社会がおかしい、と言うときにはつまりそれを担っている具体的個々人の細々とした自由さえ我々は許さないと宣言しているのだということは自覚してしかるべきだろう。勿論覚悟があればその上でやればいい。人生は一度 2009/08/19

 べきだろう、ってなにその俺様ルール。個々人の細々とした自由の話は誰もしてないのに、この人も話の内容を分からないままコメントしちゃうタイプ?

nijuusannmiri 社会, 差別 「運動のジレンマ」かしら。カムアウトしない「権利」が真の意味で獲得されるのは、差別が解消された時ではないかな。 2009/08/19

 差別が解消された時には、そもそもカムアウトなんて概念が成立しない。ていうかそれはもはや「カウアウト」ではない。社会が隠し忘れ去ろうとするからこそカムアウト。

Domino-R クロゼットは権利か否かという問い方自体が単にレトリックに過ぎない。それに答える必要は無いし、そうする意味も無い。/包帯のような嘘を見破ることで、学者は世間を見たような気になる。 2009/08/19

 誰も「権利か否か」なんて問いは立てていないわけで、立てられてもいない問いに答える必要も意味も、たしかにまったくどこにもないでしょう。へんなの。

umeten 社会, アウトサイダー問題, 男女問題, ジェンダー, 性, 社会福祉, 哲学, 身体と精神, 批評 「カムアウトするタイミング」というのが、単に時間的問題であるような字面なので皆、誤解する。そのタイミングの要点は「カムアウトするための環境」と言うべき「予測される障害を避ける・クリアできる条件」のはず 2009/08/19

 誤解するポイントが他の人と比べてずれてるんじゃないかと思うんだけど、まあumetenさんはそこを誤解しそうになった、ということでOK。でも仮に「単に時間的な問題」だとしたら、午後3時以降ならカムアウトできるとか、こんどの土曜日はカムアウトの日とか、そんな話になってしまうわけで、いくらなんでもそんな誤解する人は他にあんまりいないと思う。

BUNTEN 社会 が悪いから、日和る自由も尊重されるべき。少なくとも俺の、闘士の刃は日和った仲間ではなく社会に向けたい。 2009/08/19

 サラ・シュルマンは、「われわれ(同性愛者)は同士なのか? 同士であるならば、みんなが少しずつリスクを引き受けてカムアウトすることで、コミュニティ全体のリスクを引き下げるべきではないか?」みたいに言っているんだけど、これはAIDS危機の最中にその中心部での発言であることに注意。カムアウトせずにおとなしく生活していけるならまだしも、毎週のように知人が次々と死んでいくという極限状態では、判断は変わってくるはず。

TLW 社会の在り方を改善してから、カムアウトしない自由はないって言おうぜ。 2009/08/20

 改善したあとの社会では、カムアウトする自由もしない自由もどちらもあるに決まっているじゃないの。まあ「性的少数者だけでなくて、すべての人がカムアウトするかどうかの判断をしなければいけない面倒な社会」になっている可能性もあるけど、特定の少数者に負担が押し付けられる社会よりよほどマシだと思う。

kuborie LGBT あり方がおかしくなかった社会って今まで存在したの?これから存在するの?という見方と、自分がどう生きていくか、は全然別問題かな。となんとなくオモタ。 2009/08/21

 うーん、でも犯罪が起きない社会や火事が起きない社会なんてこれまで存在したことはないし、これからも多分存在しないだろうけど、だから警察や消防なんて廃止すべきだ、という人はなかなかいないよね。それなのに、社会運動についてはどうしてこんな言い方が当たり前に横行するんだろう。
 おわり。

カムアウトをしない「自由」はない。クロゼットは「権利」ではない。

 イチカワユウさんの、「カムアウトするかしないかは個人の自由である」というエントリにコメント。

アメリカのアクティビストたちは、カムアウトしろしろというけど、そりゃあんたがアメリカにいるから出来るわけであって、日本では本当に特殊な人…学者とか学者とかゲイ雑誌の編集者とかゲイバーの経営者とか美容師とかアーティストとかフリーランスとか外資系じゃないとなかなかカムアウトしてアクティビストになるのは難しいんだよ…!と叫びたかった。もちろん、日本でもごく普通の社会人や学生でカムアウトしている人はいる。でも、それはまだ少数であり、やはりまだカムアウトして常にオープンなゲイとして生きることは難しいのは事実だと思う。
ですから、人はいつ、誰に、どうやってカムアウトするかを自分で決めるべきですし、誰からもカムアウトを強制されるべきではありません。カムアウトしても、養ってくれるゲイリブ団体があるわけでもなし。人が自分の生活と環境を守るために、カムアウトに対して慎重になるのは、非常に理解できることであり、またその慎重さは尊重されるべきです。
自分が安全に感じる時に、安全に感じる範囲で、納得してアウトにすればいい。他人のセクシャリティを本人の同意なしに明かしてしまうアウティングなどはもってのほかです。
そのようにアウトになるかならないか、そしてその範囲などは全て個人が自由に決定できるべきである、というのを前提にした上で、私は個人的には「親しい誰かに個人的な話をすること」がゲイリブにおいてもっとも効果的な戦略の一つであると信じるのです。
カムアウトするかしないかは個人の自由である

 ユウさんが言っている内容のほぼ全体には賛成。でも少しだけひっかかりを感じる。
 カムアウトをするべきかどうか、あるいはカムアウトするとしたらどういうタイミングでするかは、本人の判断に任されているべきである。それはまったくそう。勝手に「あの人は〜だ」とアウティングしてしまうのは、良いか悪いかと言えば悪いことだろう。
 でもそのアウティングについて、レズビアンの小説家で活動家のサラ・シュルマンは、1990年にThe Village Voiceに掲載した短い文章「Outing: The Closet Is Not A Right(アウティングについて−−クロゼットは権利ではない)」で、次のように書いている(超意訳)。

同性愛者の有名人を無理矢理クロゼットから引きずり出すことが道義的にどうであるかについては、わたしはよく分からない。しかしわたしが分かるのは、そうした行為を「プライバシーの侵害」と呼ぶことは、歪曲であり不誠実だということだ。ほとんどのゲイたちは、職を、住居を、安全を、家族の愛を失わないために、クロゼットの中に収まり続けている。罰を恐れて自分の生き方を隠さなければいけないことは「権利」ではないし、「プライバシー」でもない。(中略)クロゼットは「権利」ではない。それはわたしたちが不要にしようとしているもので、しがみつくものではない。
Sarah Schulman "My American History" 198ページ

 カムアウトをしないという本人の意志を尊重すべきだ、というのはその通りだと思うけれども、本当に本人の意志を損ねているのは、カムアウトを呼びかける活動家ではなく、自分が何を感じどう生きているのか、生きたいのかを、隠さざるをえないような状況にしている、強制異性愛社会の側だろう。「人にはそれぞれ事情があるのにカムアウトするべきだという考えを押し付けるのはおかしい!」という人もいるけれども、そうした事情を生み出している社会のあり方の方がずっとおかしいとわたしは思う。

あんまりいつもウソばかりついていると、次第にこんなことになってしまうという例。

 某秘密主義ジェンダー学MLで、こんな記事が紹介されているのを見つけた。

「魅力ある夫はスカンジナビア系、日本は下から4番目=英研
究」@ロイター
http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-10405920090805

 さっそく、元となる記事を探してみたのだけれど、以下が見つかった普通の記事の見出し。


http://www.thelocal.se/21098/20090804/

 そして次が、実質的に共和党メディアとなっているFOX News。


http://www.foxnews.com/story/0,2933,536601,00.html

 てゆーか、そもそも夫の魅力は全然関係ない研究っぽいんだけど!

フェミフェミな音楽エッセイにツッコミいれてみる。

 日本フェミ業界が必死になってやっている、ウィメンズ・アクション・ネットワークのサイトの、音楽に関するリレー・エッセイと思われるコーナーに「黒人音楽と白人ミュージシャン、女性ベーシストCarol Kaye」という記事があった。著者は堀あきこさんという方で、調べたところ『欲望のコード マンガにみるセクシュアリティの男女差』という本を出したばかりの人のようだ。
 その中で、次のような記述がある。

黒人による黒人のための音楽が、白人層をも巻き込んで、世界に名をとどろかせるビッグ企業に成長。有名なシンガーの影となり、素晴らしい演奏でレーベルを支えた黒人バンド……
 それが、これまでのモータウンとThe Funk Brothersをめぐる定説だった。
 しかし、女性ベーシストCarol Kayeは、モータウンの演奏はThe Funk Brothersだけでなく、彼女のプレイが数多く含まれていたと告発。
 モータウンは、黒人企業・黒人ミュージシャンという特徴を前面に打ち出した。そのため、白人プレイヤー、レーベルの拠点(デトロイト)ではないLAのプレイヤー、そして、女性プレイヤーの存在を暗闇に追いやったのだ。
 彼女が演奏したという曲には、モータウンが誇るThe Supremesの多くの曲、例えば「Stop In The Name Of Love」「You Can't Hurry Love」、その他にもFour Tops「Reach Out I'll Be There」があげられている。
 彼女は告発によって、今も批判や侮辱を受けているという。「女にあんな演奏ができるはずがない」というバカげた前提に加えて、モータウンは黒人文化の中で生まれたものであり、白人ミュージシャンの手など借りていない、という「黒人のもの」というイメージを維持しようとする力によって、だ。
(略)
 女であり白人であるがゆえ、彼女が受けられなかった賞賛やリスペクト、彼女のミュージシャンとしての人生に及ぼした/及ばさなかった影響を考えると、なんともやるせない気持ちになる。
 そして、彼女がとった勇気ある告発に、胸が痛くなるのだ。
黒人音楽と白人ミュージシャン、女性ベーシストCarol Kaye

 この記述によれば、黒人コミュニティが一方的に白人女性であるCarol Kayeに不寛容みたいな話になっているけど、あまりに一方的。彼女の「告発」は広く知られていて、一部では大きな論争となっているのだけれど、事情を知らない読者が読んだら「そうだ、女性はこんなに差別されている」どころか、「黒人は白人に不寛容だ」という倒錯した印象も与えかねない、とんでもない記事だと思う。
 堀あきこさんが説明する通りCarol Kayeは、20世紀の音楽界に大きな貢献をした偉大なスタジオミュージシャンの一人として名前を残している。彼女が女性だからといって、そのことに異論を挟む人は誰もいない。多くの人が疑問視しているのは、The Funk Brothersのベーシスト、James Jamersonによる演奏によるものとされてきたモータウンの数々のヒット曲について、彼女が「ベースは自分の演奏だ」と主張していることだ。
 この問題について最も具体的な調査をしているのは、このJamersonの伝記を出版し、のちにその生涯と影響についてのドキュメンタリ映画を製作したDr. LicksことAllan Slutskyという人だ。かれは、Jamersonの伝記を書くための取材の中で、Jamersonの演奏とされている曲の一部がKayeのものであるという話を聞いて、彼女にインタビューをした。そして具体的な曲名を聞いて、かれは驚愕する。彼女の主張では、ヒット曲いくつかどころの話ではなく、Jamersonの偉大な業績の大半が実際には彼女のものであったというのだ。
 Slutskyは、もし彼女の主張が事実だと証明できるのであれば、Jamersonではなく彼女についての本を書くべきだと思い(衝撃的な著作として話題になっただろう)、裏付け調査をはじめる。ところが関係者にいくら取材をしても、Jamersonが実際に演奏したという証拠や証言ばかりが集まっていったようだ。たとえば、作曲者やプロデューサたちをはじめ、The Funk Brothersの他のメンバーや共演者たちも口を揃えてJamersonが演奏したという。共演者の中には、Kayeと共演したこともあるという人もいた(どちらも著名なベーシストだったのだから当然)が、彼女が挙げた特定の曲について「その曲を彼女と録音した」と証言する人はいなかった。Kaye自身が「この人なら事実を知っている」として挙げた共演者すら、彼女の言い分を肯定する証言はしなかったという。
 これだけなら、Kayeの主張とSlutskyの主張が食い違っている、というだけなのだけれど、Slutskyが「伝記著者として、Jamersonの名誉を守るため」という形でこうした調査の結果をネットで公開したことで、動きがあった。Kayeはこの記事を名誉毀損として民事裁判に訴えたが、そのことで逆にSlutskyが弁護のために証拠を固めることになる。かれは、実際にJamersonが録音したと知る立場にある当時の関係者複数から宣誓付きの証言(嘘をつくと偽証罪になる)を得るばかりか、その物的証拠となるモータウンの当時の契約書やスタジオ使用記録などを証拠申請して集めることとなった。結局、この裁判は審議に入るまでもなくKayeの側が訴えを取り下げることで終了した様子。
 モータウンでは白人のスタジオミュージシャンはたくさんいたらしく、Kayeが白人だからという理由で賞賛やリスペクトを奪われたということはありえない。だけど、女性として様々な苦労をしたというのは事実だろうし、自分の音なのに「女がこんな音を出せるはずがない」と言われたことも一度や二度じゃないと思う。そして、彼女がそれを打ち破って数々の名演奏を残したことは、賞賛されるべきだ。
 けれど、一般的にJamersonが演奏したとされている多数のモータウンのヒット曲の大半において実はJamersonではなくKayeが演奏していたという言い分は、どう見ても分が悪い。もし彼女の主張が正しいとすると、多数のミュージシャンや関係者を巻き込んだ大規模な隠蔽工作があり、かれらは一致して裁判の場における偽証や証拠偽造も厭わないほど彼女の功績を否定したがっている、ということになってしまうけれども、いくらなんでもそれは考えられないもの。いくつかの曲のベースを彼女がひいていた、くらいならありえると思うんだけど。
 これくらいの事実は調べて書いて欲しいよね、というのは常にそうなんだけれど、とくにこの場合は、米国において「黒人社会の閉鎖性によって」「白人が」不利益を得ている、という、倒錯した印象を与えかねない記事を書いているわけだから、普段よりさらに慎重に書いて欲しかった。


 ついでなので、リレーエッセイの1つ前にある「メジャーの隣――カナダの歌姫 Sarah McLachlan」についてもツッコミいれとこう。著者は、政治学者の岡野八代さん。彼女の『シティズンシップの政治学 国民・国家主義批判』は良いと思いますよ、はい。
 で、引用。

外国語の歌は、よほどじゃないと歌詞の意味まで考えてみたりはしないけど、サラの歌は、どうしてだか、いつも女性に語りかけているように聞こえる。そして、いくら合衆国のグラミー賞にノミネートされた経験があるとはいえ、やはり、サラはメジャーの隣で、〈自分がgood と感じる歌を自由奔放に〉がわたしのイメージ。このイメージは、サラのサウンドが要所で使われている映画 Better than Chocolate(1998年)を見たときから。ロンドンのレズビアン・ゲイ映画祭で賞をとったようだけど、残念ながら日本では、DVDは輸入盤しか手に入らない。
メジャーの隣――カナダの歌姫 Sarah McLachlan

 彼女の歌は女性に語りかけているように聞こえる、それはレズビアン映画の挿入曲として使われていたから−−って、なにそれ! 音楽についてのエッセイじゃなくて、単なる個人の思い出話になってしまっています。

本映画がカナダで公開された時は、単なる恋愛コメディで異性愛者におもねっていて陳腐、といったような評価しか下されなかった。だけど、内容は、レズビアン・ショップが検閲捜査にあったり――これは、カナダでマッキノン・ドゥオーキンの「猥褻概念」が採用されたあと、警察の標的になったのがゲイ・レズビアン本屋だったことを考えると、非常に政治的なメッセージがある――、トランスの「彼女」とレズビアンとのカップルが誕生したり、離婚して落ち込む母と、母にカムアウトできない主人公との葛藤など、レズビアン・コミュニティの様子をこまやかに見せてくれる。

 いやだって、あの映画に「おそろしいほど陳腐な恋愛コメディ」以上の評価は下しようがないでしょ。でもそれは悪いことじゃなくて、あれだけ陳腐な恋愛コメディがレズビアンコミュニティを舞台として製作されたという事実は、社会が良い方向に進んでいるということだと思う。また、陳腐な恋愛コメディにトランスジェンダーの人物が登場して、彼女の困難を描きつつ最後にはちゃんと結ばれる、というあたりも、それ自体大した事ではないのだけれど、当たり前のことが当たり前の陳腐さで表現されている、ということが新しいのかもしれない。
 ただし、トランスの女性を「トランスの『彼女』」と、まるで彼女がまがい物の「女性」であるかのような表記をしていることと、「トランスの『彼女』とレズビアンとのカップル」という形で、実際には二人ともレズビアンなのに「トランスの『彼女』」はレズビアンではなく、彼女の相手だけがレズビアンであるかのような記述となっていることは、軽く批判しておく。
 とまあそれはともかく、これってフェミ的な話題を扱うエッセイのはずだよね? だったら、なんでSarah McLachlanが企画して三年間実施した、女性ミュージシャンだけの夏のコンサートツアー、Lilith Fairの話をしないんだろう? 彼女自身がLilith Fairについて発言しているインタビューなんて、いくらでもあるんだけどな。あと、映画『Better Than Chocolate』の挿入曲について話すなら、「32 Flavors」を歌ったAni DiFrancoの方がずっとフェミでクィアな表現活動をしているし、彼女自身が運営するインディーズレーベルや、荒廃する地元のための社会活動の話題も含めて、いろいろ書けたと思うんだけどなあ。せっかく某教授の恫喝に屈して会費を払って記事を「書かせていただいている」のに、もったいない。


 そういえばずっと昔、友人がMcLachlan「Ice Cream」の歌詞から「your love is better than ice cream」と歌ってくれたので、チョコレートと比べたらどうなの?って聞いたら、ミルクチョコレートよりは上だけどダークチョコレートよりは下、という答えが。どうやら、単に彼女は乳製品にアレルギーがあるだけだったらしい…ってなにそのオチ!

SNSで生徒の問題行動を知ってしまった教師への倫理的アドバイス

 The New York Timesの倫理的問題相談コラムThe Ethicistにて、Facebookソーシャルネットワークサイト)で繋がっている生徒の問題行動を知ってしまった教師の相談があった。相談の内容は、以下の通り。訳はいつもの通りいい加減なので、うるさい人は原文を読んでください。

わたしの友人は生徒に人気の中学教師です。彼女はFacebookにアカウントを持っていて、多くの生徒から「友だち」として登録されており、かれらの書き込みを読むことができます。その結果、彼女は生徒たちについていろいろなことを−−ありがちな未成年の飲酒や麻薬の使用、時にはテストでのカンニングや宿題のズルなど学校に関連した問題行動などを含めて−−知ることになりました。彼女は、これらのことを学校や警察、家族に知らせなければいけないでしょうか? 学校には、この現代的な問題に関する規則はありません。

 これに対する、コラムニストのランディ・コーエンの答えがいい。

この教師は、生徒たちがトラブルに見舞われる前に応答すべきです。そしてあなたが述べた中で最も危険なのは、未成年の飲酒でも麻薬使用でもなく、これらの問題行動が公に晒されていることです。あなたの友人は、生徒たちにインターネットにおけるプライバシーについて、あるいはその不在について、教えるための機会を手にしていると言えます。是非教えるべきでしょう。もし彼女がネットで知ったことをただ通報してしまえば、より重要なことを教える機会を失い、生徒たちに信用を裏切られたという気持ちを抱かせてしまうでしょう。一言でまとめると、彼女の本来の役割は教育者としてのそれであり、警察官ではないのです。
 厳密に言えば、生徒たちがあなたにFacebookのページを見せることを決めた時点で、かれらはプライバシーを放棄したと言えるでしょう。しかし、多くの子どもたちにとってはそうではありません。かれらにとって、Facebookは公と私のあいだの奇妙な空間にある、たとえるならキッチンのテーブルの上に置いてある日記のようなものです。飲酒している場面の写真が、後に仕事や奨学金を得る機会を脅かすことになるということは、かれらの全員がきちんと考えていることではありません。この教師は、それをかれらに考えさせることができるかもしれないのです。
 彼女は生徒にメールを出して、問題行動に言及しつつ、かれらのネットにおける無防備さを指摘することができます。あるいは、個々の生徒の名前を挙げずに、教室全体に向けて問題を指摘することもできます。インターネットにおける危険について生徒に定期的に教えるように、学校にはたらきかけることもできるでしょう。
 これは、問題行動から目を背けるべきだということではありません。優先順位をはっきりさせるべきだということです。もし子どもが本当に危険なことをしているなら、すぐさま介入すべきです。もし生徒がカンニングなどをしていたなら、最初のメールで厳しく警告し、もしふたたび彼女が同じような行為を知ったら処罰が待っていることを、生徒に理解させるべきです。
 あなたの友人は、生徒たちとの距離の取り方を考え直すべきかもしれません。生徒たちが彼女に秘密を打ち明けることができるというのは素晴らしいことですが、秘密を打ち明けることとうわさ話をすることは違います。彼女は教師であり、かれらの友人ではないという区別は、彼女が教師としての影響力を保つためには必要です。

 ランディ・コーエン偉い。