上野千鶴子をディスしたエントリのフォロー
本家ブログ最新記事は上野千鶴子氏が5月に行った講演「ジェンダー・セクシュアリティ研究に何ができるか」において,上野氏が Michael, Gagnon et al. 著「Sex in America: A Definitive Survey」(1994) を間違った形で引用しているのではないかということと、DVや子どもの虐待への対策として国家権力を肥大化させることはネオリベラリスティックなプライバシーへの侵害を助長するのではないかという2点において上野氏の言説に批判的な内容を書いた。
上野氏のような著名なフェミニストに対してこのように批判的な文章を誰もが読めるような場所で公開することは、彼女をあらゆる方法で中傷しようとするバックラッシュ勢力を利することになるのではないかという懸念はもちろんあった。ジョン・マネーの「双子の症例」に関して、上野氏がこのケースについて何ら言及していないにも関わらず、彼女が「双子の症例」を理論的支柱にしているだとか、マネーの失敗を隠蔽しているとか無茶苦茶な批判にさらされるくらいだものね。
でも、フェミニストたちは常に他のフェミニストとのあいだでも意見を戦わせてきたし、そうすることでより洗練された論理を生み出して来たのだから、どうせ上野氏の講演もわたしのエントリも本当には理解できないような連中に悪用されることを恐れて発言をひかえる必要なんてないと思う。第一、何も批判されるような事をしていなくても勝手にでっちあげてバッシングしてくる連中なんだから、わたしが批判を控えたって何も変わらないじゃないの。
そういうバッシング派じゃなくて、普通に議論を理解することができる人なら、フェミニスト同士だからといって党派的にかばい合うのではなく言うべきことは言い合う姿勢に、より信頼感を感じてもらえるのではないかと思う。例えば、上で書いたような上野氏に対する「双子の症例」に関係した批判が無根拠であることをわたしは何度も指摘してきたけれど、わたしが上野氏ベッタリではなく批判するときは批判する態度を取っているからこそ、わたしが上野氏を擁護するときはそれが党派的な理由によるものではなく、実際に資料を吟味して批判が不当であると判断したからなのだということをより信頼してもらえるのではないかな。
それはいいのだけれど、書いた後からもう1つの懸念が浮かんできた。講演を主催した国際基督教大学ジェンダー研究センターは、講演の全文をサイトで公開するにあたって「引用は一切、許可できませんのでご注意ください」と書いてある。許可しないのは勝手だけれど、公に発表された文章を批判・批評するために引用するのに誰の許可を得る必要もないはずなので、わたしのブログでは勝手に引用している。よくこれを法律論だと誤解した人が「合法なら何でもやっていいのか」と倫理的に批判するけど、わたしは法律論としてではなく批評の自由を守ることが社会の利益に繋がるという公共的倫理として「許可を得る必要はない」と言っているのね。
で、それについて今さら「引用は許さん、削除せよ」と言い出すほど上野氏やジェンダー研究センターが偏狭だとは思わないけれど、これをきっかけに今後上野氏やジェンダー研究センターが講演内容をウェブサイトで公開することにより消極的になる可能性もあるな、と気付いた。講演の記録を読む限り、どうやら上野氏の講演を聞きに来ていた人の大半はあらかじめ彼女と近い考え方を持った人ばかりだったように思うのだけれど、論敵の前では言えないけれど味方の前だと思うとついガードを緩めて言ってしまうような事ってあると思う(例えば、上野さんはバックラッシュ派のことを蠅に例えているしー)。わざわざ講演に足を運んだという事実でもって聴衆の大半は自分に好意的な人たちであると考えられる講演の場で言ったことを、誰が読むとも分からないウェブサイトに掲載するのは危険だとかれらが結論付けてしまえば、国外に住んでいるわたしは今後一切上野氏の講演やジェンダー研究センターにおける他の講演をウェブで読むことができなくなってしまう。
公開された文章を批評することの自由は大切だけれど、より多くの学術的な文書をネットで公開してもらうことにも社会的な価値がある。正当な批評がおかしな言説を言論市場から駆逐するのは良いとして、価値のある言論をネットで発表することにまで萎縮効果が及ぶようならとても残念。でも、だからといって引用や批評を控えるというのもおかしいですよね。一応批判はするけど、今後も講演をどんどん公開して欲しいから、できれば本人たちの目に留まらないで欲しいな、みたいな中途半端なことをわたしは考えてしまっている。
でも、ある人の話だと、上野ゼミ出身の北田さんは既に読んでる可能性が高いらしい。わーん怖いよー(結局上野氏の反撃が怖いだけか、わたしは(笑))