これで通じないなら、もう論理を口にしないで欲しいと思う

今日はやたらと書きまくっているけれども、khideaki さんが chiki さんからの批判に応える中で、はじめてフェミニズムに特有の「暴走性」を特定のフェミニズム解釈に依存しない形で示している。すなわち、

他の思想と比べてということでいえば、同じように逸脱した思想としてのマルクシズムとの相似性を感じている。虐げられ、不当に抑圧されているというルサンチマンが、逸脱する可能性をはらんでいる。

 ということらしい。なるほど、ルサンチマンは思想が暴走を起こすひとつの要因にはなるだろう。
 でも、それを言うなら「反フェミニズム」だって「嫌韓派」だって、自らを(「フェミナチ」や韓国ナショナリズムの)「被害者」として位置づけて暴走しまくっているわけで、フェミニズムのようないわゆる「社会的弱者」の側の思想だけが暴走するわけでもない。ルサンチマンを燃料に暴走することにかけては、保守系の思想だって同じだ。というわけで、再びここで、本来ならば思想一般に当てはまるはずの問題にことさらにフェミニズムという個別の名前をあげて批判対象とすること、そしてその批判が成り立つ証左としてデマとしか言えないような例を挙げることのパフォーマティヴな政治性が問われることになる。
 ここであえて好意的に解釈するなら、それら「勝手に被害妄想を起こしているだけの自称被害者」と違い、女性は「本当に被害を受けている」ために、よりルサンチマンが暴走に直結しやすい、という反論が考えられる(笑) けれども、もしそうだとしたら、暴走を取り除くためにはただ単に「フェミニズムは暴走性がある」と言うことよりも、具体的な施策を通してそういう「本当の被害」を取り除いていくことを優先すべきではないか。
 フェミニストが暴走することはないのかと言われれば、もちろんあるに決まっている。けれども、暴走したフェミニストに対しては真っ先に他のフェミニストから批判がある。例えば、保守派と組んでポルノグラフィ規制を掲げたフェミニストたちがいたが、かれらに最も激しく抵抗したのは他のフェミニストたちだった。
 ある思想が暴走する危険に対する歯止めは、論理的な誤謬のありえなさ(どんなに極端にしても問題が起きないような論理的な完璧さ)に求められるものではなく、意見の多様性やそれに対する寛容さを育むことで担保されるものではないだろうか。そういった要素を考えるなら、フェミニズムという思想はその豊かな多様性のために、他のさまざまな政治思想と比べてむしろ暴走の危険性は低いとわたしは感じる。