あるマルクス主義者の自意識劇場

どうやら khideaki さんは chiki さんだけをマトモな議論相手と認定する一方、わたしなどは「まったく前提を共有できない」「議論にならない」相手だと断定してしまっているらしい。そう考えるのはもちろんかれの勝手だけれど、かれの議論がどんどん支離滅裂になっていくのをただ見ているだけでもつまらないので、ちょっとコメントしておこう。

chikiさんは、「「たとえ善意から出発した○○であろうとも、それが極論にまで達すれば論理的には間違える」というのはどんな論理にも当てはまる」と書いている。つまり、僕が語ったことはある意味ではごく当たり前のことなのである。書き方が気に入らないということはあるだろうが、ごく当たり前のことに対してどうして過剰反応が起こるのかが僕には分からない。

 どんな論理にも当てはまるようなことが、ことさらフェミニズムの欠点であるかのように「フェミニズムのうさんくささ」という文章で指摘してあれば、そりゃ当然反発を受けるでしょ。わたしが例として挙げた通り(そして、chiki さんが引用した通り)、「人は誰でも暴力性を持っており、下手すると殺人をおかしてしまう可能性がある」という一般論がいくら正しくても、特定の個人の名前をあげて「あの人は殺人予備軍」と言えば中傷になる。

フェミニズムにもこんな所に論理が逸脱する可能性があるという指摘は、それほど非難されるようなことなのだろうか。これによってフェミニズムへの偏見や誤解が助長されると思っているのかなという印象を受けるが、この程度の論説で偏見や誤解が助長されるのであれば、すでにもう偏見や誤解の中にあるのではないか。

 「フェミニズムにもこんな所に論理が逸脱する可能性があるという指摘」というけれど、その内容はただ単に「ルサンチマンの暴走に気をつけろ」というだけ。そんなこと死ぬほど言い尽くされているって。そして、暴走の例として持ち出されたのが、フェミニズム攻撃のために捏造されたデマの数々。 khideaki さんは別にそれらが事実だと言っているわけではないと言うけれど、悪意あるデマを無批判に広めるような発言は無責任。

フェミニズムというまとまった陣営はないのだろうが、フェミニズムの側に立っていると自覚している人たちは、むしろフェミニズムが行き過ぎて誤謬に陥ることに対してもっと敏感に研究した方がいいのではないかと思う。そして、このような行き過ぎをすると誤謬に陥るのだから注意をしようと呼びかけた方がいいと思う。

 「もっと敏感に研究した方がいい」という意見を言うからには、現状ではどの程度きちんとした研究や呼びかけが行われているか認識した上で、それでは不十分だと思っていることになるけれど、この点でも khideaki さんはフェミニズムに関して決定的に知識を欠いている。自分の主張は論理に関するものだから知識の欠如を批判されるいわれはないとさんざん言っておきながら、自分の知識が及んでいない問題について勝手に決めつけて批判するような発言をしているのだから困ったものだ。
 第一、呼びかけるにしてもただ漠然と「ルサンチマンに気をつけろ」と言ったり、カリカチュアライズされたフェミニズムについてのデマを示しても全く意味がない。 khideaki さんの「指摘」とやらが反発を受けているのは、それが数々の無知や無理解に基づくものであるからだけではなく、暴走に対する歯止めとして全く無効果だからだ。暴走を抑止するための呼びかけをするにも、それなりに知識は必要ということ。
 まったく同じことが、以下の意見についても言える。

マルクス主義もそうだったがフェミニズムも、自らが正義の立場にいることに疑いを持たない。絶対的正義を標榜しているように見える。

 「〜に見える」というのは、要するに自分がマルクス主義に対して抱いていた視線を勝手にフェミニストたちに投影しているだけ。実際にそうなのかどうか、どれだけ事実を知っているというのか。フェミニストは自分たちが「いつも間違いに陥っていないかという反省が必要なのだ」と偉そうに言うけれども、そんなの当たり前すぎるくらい当たり前の話。マルクス主義を通して自分が到達した認識の方がフェミニストより先に進んでいると勝手に勘違いして、あなたたちも自分に見習いなさいと説教しているだけだ。腐れマルクス主義者の説教癖っていうのは一生抜けないんだろうか。

chikiさんは、「「男女の違いを無理やり無視するジェンダーフリー論が跋扈(ばっこ)している」ことが前提になった」ということを問題にしているが、この前提が全くないと言い切れるかどうかにも僕は疑問を持っている。もちろん、そのような「男女の違いを無理やり無視するジェンダーフリー論」は、本物の「ジェンダーフリー論」では無いという批判はここでもあるだろうが、それが本物ではないということを認めた上で、あえてそのようなものが「跋扈している」ということはないと言い切れるだろうか。

 ここでも、「事実を論じているわけではない」と言っていたはずなのに、いつの間にか事実の主張にすり替わっている。それでいて、かれは何ら事実を知ろうと努力していない。どんなに強引なデマであれ、「全くそういうことがないと言い切れるのか」と言われれば誰もが一瞬立ち止まらざるを得ないという心理を突くことで、自分が挙げた例が現実に基づくのか単なるデマなのか、一般的な話なのかごく特殊な例なのか、という判断を完全に回避している。
 要するにこの人物は、事実を攻撃されれば「論理の話をしているのだから」と逃げ、論理に反駁されれば事実について「全くそういうことがないと言い切れるのか」と中途半端な嫌疑をかけることで論争から逃げている。さらにそれでも駄目だとなると、運動論という最後の逃げ先もあるんだけどね。「お前の言う事は正しいかもしれないが、正しいだけでは運動は支持されないぞ」と(笑) こういうのを、普通「まったく議論にならない」論者と呼ぶんだけどね。


さらに、こんなことも言う

僕は、相手がどんなにバカだと思えても、直接バカだとは表現しない。その主張がどれくらいばかげたことであるかの論証に最大限の努力を費やす。バカという言葉を使わずにバカという認識を伝えることに努力する。直接的な悪口雑言を吐いてしまったら、言説の説得力を失うだろうと思う。特にリベラルの側はこの点に注意した方がいい。そんなことをしたら、いわゆる「ネットウヨ」の類と同じにしか見られないからだ。

 はい、運動論来ました(笑) 直接悪口を言わなくても khideaki さんの言説に全然説得力がないのは、こういう普通なら書かないような内幕を披露せずにはいられないナルシシズムと無関係ではないでしょう。ナルシシズムと言えば、

このような僕の態度は、自らの悪意を自覚しての行動だ。しかし、悪意を自覚した人間の方が、僕は正しいことが言えると思っている。善意だけの人間が、善意があるから正しいと勘違いしている姿を見ていると、僕の中の悪意は、それに皮肉を投げつけてやりたくなる。

とか、

僕の中のそう言う悪意までも受け取って批判してもらいたいと思う。

とか、

正義なんて、どうせその時の多数派の意見に過ぎないのだから。

とかいう自堕落な露悪趣味を見ると、まるで中学生だった頃の自分を見ているようで恥ずかしくなる。でも、この人そんな年齢じゃないでしょ。はっきり言って、寒いよね。

偏見を煽って、攻撃しようと思えば、いくらでももっと過激なことを書ける。その偏見は、偏見を持つ方が悪いという認識にとどまっている限りでは、偏見の払拭は出来ないと僕は思う。特に相手が悪意をもっているときは、「相手が悪い」というのは百も承知で悪いことをしている確信犯だ。フェミニズムは、体制権力を批判する面を含んでいる。そんなものは弾圧されるのが普通だと受け止めておいた方がいい。正義の主張をするだけではフェミニズムを守ることは出来ないだろう。

 まったくその通り、正しい主張をすれば認められるというほど社会は単純ではないし、権力を批判すれば弾圧されるというのも当たり前。でも、khideaki さんって悪意を持ってフェミニズムを潰そうという考えの持ち主だったわけですか? 正しい批判をした結果フェミニズムが潰れてしまっても仕方がないという見解の持ち主だとは思っていたけれど、悪意からフェミニズムを潰そうとしている論者だとは気付かなかった。というか、これまでそんな事言ってなかったのは、やっぱり悪意があるから隠していたの? だったら、今になってその悪意を公表してしまうのは、悪にとってマイナスじゃないですか?(笑)
 もちろん、わたしは khideaki さんが本当に悪意からフェミニズムを潰してしまおうと思っているとは思わない。ちょっとそういう露悪的な事をいうのがカッコいいとナルシスティックに思い込んでしまうお年頃(実年齢とは無関係に)なんでしょ。論理論理と言いながら、こんな気色悪い自意識の垂れ流しを目撃させられるとは思わなかったなー。