他者に「無謬性や教条主義の影」ばかり見出すという症候

 khideaki さんがまたゴチャゴチャ書いてます

次に、瀬戸さんが指摘している「フェミニズムのうさんくささ」のタイトルの問題に移ろう。このタイトルが、論理的な考察を妨げて感情的な反発を呼んでいるという指摘だ。しかし、僕はこのタイトルは充分論理的なものだと思っている。「フェミニズム」というものは充分うさんくさいものなのだ。
(略)
フェミニズム」がうさんくさいというのは、僕の感覚であり、しかもそれは事実に基礎を置いた感覚なのである。その「うさんくさい」という言葉を否定しようとしても仕方がないのではないか。

 もはや支離滅裂ですね。この人の頭の中では論理と感覚が区別されていないようです。
 もちろん、フェミニズムがうさんくさいことを論理的に論証するならそれも良いし、あるいはフェミニズムに関する具体的な事実を挙げてフェミニズムがうさんくさいと感じる主観的な理由を述べるのもまた良いと思うけど、ただ単に漠然と感じる不審感みたいなものを無理矢理「論理的な考察」と言い張るのはやめた方がいいと思うよ。
 それより今回のエントリで面白いのは、これまでのフェミニズムに対する傲慢かつ勘違いした物言いが、全てマルクス主義者として khideaki さんが到達した「反省」の自己投影でしかないことがよく分かる点。以下ちょっと長くなるけれど引用。

考えが暴走する可能性があるのはフェミニズムばかりではないのだから、他との比較も必要だと語った言葉があったので、その比較をしてみて気がついたことが一つある。大きな暴走をして、社会に多大な害悪を与えたマルクス主義やオウム教団に共通していたのは、「無謬性」という言葉で語ることの出来るものだと感じる。「無謬性」こそが暴走のきっかけになるのではないかと思う。
 旧社会主義国は、国家に対する批判を許さなかった。国家は間違えてはいけないし、常に正しいとされなければならなかった。それは、プロレタリアート独裁の正当性が崩れてしまうからだ。失敗した政府は、当然責任を取って交代しなければならないのが、近代の掟だからだ。
 資本主義国家が、社会主義国家ほどの大きな暴走を許さなかったのは、失敗した政府を批判するという、失敗に対する対処のメカニズムがあったことが大きかったと思う。毛沢東が、いかに文化大革命で失敗しようと誰も毛沢東を批判出来なかった。それを失敗(誤謬)と認識することが許されなかった。
 無謬性というものがその考えにあると、間違ったことを正しく判断出来ない。おそらくこれが暴走のきっかけになって、その歯止めがなかった旧社会主義国は完全な破綻の道を歩んだのだろう。
 無謬性に拍車をかけるものに教条主義というものもある。これがはびこっていると失敗の認識はさらに難しくなる。「うさんくさい」という言葉に過剰反応する心情の中に、無謬性とか教条主義の陰がないかどうか、よく考えて欲しいと思う。これは自分でそれが分かるときは、それを乗り越えることで成長出来るが、他人から見える形で出てきてしまえば、その「イズム」は破綻への道を歩む途中になってしまうのだ。その分かれ目になるのが、誤謬に敏感になると言うことになる。

 ここで khideaki さんは、フェミニズムの中に「無謬性や教条主義の影」があるという具体的な指摘はできていない。他の思想と比べて、特にフェミニズムにその危険が高いという指摘もない。ただ単に、自分がコミットしたマルクス主義の過ちを、何の根拠もなくフェミニズムに投影しているだけだ。つまりこの人は、フェミニズムの中にあるルサンチマンが危険だと言いながら、自分自身のルサンチマンを暴走させているだけだということ。いい加減にしろと言いたい。
 マルクス主義者として「無謬性や教条主義の影」を克服するというのは、khideaki さんにとって切実な課題なんだろうとは想像できる。だからといって、何の具体的根拠もなく他者の中に「無謬性や教条主義の影」ばかり見出すというのはちょっと考えものだ。まともな精神状態とは思えない。他者にあれこれ言う前に、自分自身を見つめることからはじめてはどうだろうか。