これを単なる「煽り」としか読めないならどーしようもないですが

 Masao さんがまた何か書いてます。議論は全然進んでいないのでここは手短に。

しかし失礼ながら、どの記事も僕の「文脈」「意図」が汲み取られていないものになっていると感じました。

 こちらは Masao さんの「意図」なんて問題にしてないわけで。作者の意図を読み取ることが「読書」だと教える国語教育の弊害というやつですか? 自分の「意図」がそんなに相手にとって大切だと思い込める発想って、どこからくるんだろうか。

それを理解してもらうには、僕があの思考に至った過程を、過去の体験とからめて順を追って話していくのが一番だと思いました

 おそらく陳腐なことが書かれているのだろうなぁと想像つくし、興味ないので飛ばそうかとおもいましたが、つい目に入ってしまいました(笑) やっぱり陳腐でした。まぁブログに個人の陳腐な話を書いてもいいけど、それが議論の何か重要な要素になるという妄想からして、やはり自意識過剰はとどまるところを知りません。

僕はこうした女性の告白と自分の体験とを照らし合わせるたびに、そこに「共感」を見出します。「若者男性・若者女性というジェンダーの社会規範に乗るための行動」に、ジェンダーの垣根はないと感じます。こういった文章を読むたびに僕は、「ジェンダーという社会規範からの抑圧」というテーマで、弱者男女は共感し合えると感じるのです。

 フェミニズムでは30年ちょっと昔、女性同士で体験を照らし合わせると「共感」できる、人種やセクシュアリティや国籍に違いがあっても女性のあいだに垣根はない、共感しあえる!…と早合点して、いろいろと異臭を放ったわけですが、それと同じことがここで起きています。というか、そういうモードの社会運動は少なくとも20年前には批判しつくされて流行らなくなっているわけですが。