「ジェンダーフリーではないフェミニズムには反対」論の自意識過剰と不寛容

 以下は最近本家ブログで続けている「弱者男性」論への対応シリーズの番外編。id:kmizusawa さんの「順番が違う」という記事への反論というか「違和感」を書いた Masao さんという方の「本当に抑圧されているのは誰か ?「フェミニズム」と「ジェンダーフリー」は別物なの?」という記事に軽くコメント。

実際に抑圧されているのは「男」でも「女」でも「ゲイ」でもなく、「社会から求められるジェンダー規範に乗れない/乗りたくない人たち」ですよ。社会規範に乗れている人たちは、どんなジェンダーを持っていようと、抑圧なんかされていないんですよ。対立しているのは「男VS女」ではなく、「規範適応者VS非(不)規範適応者」ですよ。ここまでは、以前別館でも書いたとおり。

 なぜ「それではなく、これ」という話になるのか。「性別を理由とした抑圧」「性的指向を理由とした抑圧」「ジェンダー規範による抑圧」のうち、どれか1つだけが分析として正しいという論理的錯誤に陥っている。
 そりゃ、異性愛者の男性の視点から見れば、「性別を理由とした抑圧」「性的指向を理由とした抑圧」は気付きにくいはず。でもそこはちょっとくらい想像力を働かせてみてよ。

僕はジェンダーフリーの思想は素晴らしいものだと思うし、共感もする。だからそれを実践している(と思い込んでいた)フェミニズムにも興味がある。だからフェミ的な思考をしていると自認するkmizusawaさんに、

今のところはやっぱりフェミニズムは世の中のあり方に対して「女性にとってどうか」ってのを第一に考える思想・運動なんだから。

みたいなことを言われてしまうと、もの凄く萎える。あぁ、「フェミニズム」ってのは、あくまで「女の、女による、女のための運動」でしかないんですか、と*3。

 どうして自分が「もの凄く萎える」ことが、何か重要な問題だと考えられるのか。そしてどうして「女のための運動」を「〜でしかない」と表現できるほど自分が偉いと思い込めるのか。自意識過剰。

もしフェミニズムが僕が感じたように「ジェンダーフリー」を目指すものではなく「女性のための運動」なのだとしたら、僕はがっかりする。っていうか、した。そうなのだとしたら、僕は「『ジェンダーフリー』には賛成だけど『フェミニズム』には反対です」という立場を取る。だってそれ、「ジェンダーフリー」じゃないもん。

 ジェンダーフリーは「ジェンダー規範による抑圧」からの解放を目指すものであり、フェミニズムは「性別を理由とした抑圧」からの解放を目指す運動。もちろんフェミニズムが戦略的にジェンダーフリーに肩入れしたり、ジェンダーフリーが戦略的にフェミニズムに肩入れすることはあっても、目的は別。そして(ジェンダーフリーという用語が適切かどうかは別として)両方とも必要な運動だとわたしは思う。
 それなのに、自分の思う通りの優先順位を持った運動でなければ存在意義すら認めずに「反対」の立場を取ると Masao さんは言う。なんと不寛容で視野が狭いことか。

僕はジェンダーフリーに限らず全ての「社会運動」は、「社会規範への抵抗」だと思ってる。表にまとめると、↓みたいな感じ。

ジェンダーフリー ジェンダー」という社会規範への抵抗
人種解放運動 「人種(白人至上主義)」という社会規範への抵抗
ニート 「労働」という社会規範への抵抗
オタク 「ライフスタイル」という社会規範への抵抗
不登校 「学校」という社会規範への抵抗
非モテ喪男 「恋愛」という社会規範への抵抗
ひきこもり 「社会」そのものへの抵抗

 ツッコミどころ満載の表。「白人至上主義って規範なのか?」「不登校はともかく、ニートやオタクや非モテやひきこもりって『社会運動』なのか?」「全てが『社会規範への抵抗』と定義しておきながら『ひきこもり』が『社会そのものへの抵抗』というのは矛盾してない?」その他もろもろ。
 「規範への抵抗」というのは社会運動の多くに共通するテーマではあるけれど、それだけで社会運動のすべてを言い尽くすことはできない。というより、(不当な)社会規範は社会運動が抵抗している「社会的不公正・不正義」のうちの一部でしかない。無理矢理自説に都合のいいモデルに当てはめて社会運動全体を解釈しないでほしい。

だから僕は、これらの「社会規範への抵抗運動」をやっているにも関わらず、「女のことしか考えない」「ひきこもりのことしか考えない」「ニートのことしか考えない」「非モテのことしか考えない」ような運動は、好きじゃない。自分とは違う属性を持つ他者への「社会規範からの抑圧」に、あまりにも鈍感だと思う。酷いダブスタだと思う。

 その「酷いダブスタ」に陥っているのが、「ジェンダー規範による抑圧」への抵抗だけを重視して、それ以外の抑圧(たとえば「性別を理由とした抑圧」)に反対する運動(すなわちフェミニズム)に対して「ジェンダーフリーじゃない」というだけの理由で反対している不寛容な Masao 氏のほう。
 念のため言っておくと、「女のことしか考えない」フェミニストはわたしも駄目だと思う。でもそれは、「弱者男性」を助けろということじゃないのよ。「性差別」というたった1つの抑圧だけを問題としていては、女性の多様なニーズや自己実現欲求に応えることが出来ないから、「女のことしか考えない」のはいけないのです。
 Masao さんはフェミニズムジェンダーフリーと同一でないから反対すると言うけれど、フェミニストの多くは同時に「ジェンダー規範による抑圧」への抵抗にもコミットしているのよ。むしろ、「ジェンダー規範による抑圧」への抵抗にコミットしていながら、ほかの抑圧に全く無頓着な Masao さんの方が問題。

だから、「ジェンダーという社会規範」へ抵抗しているにも関わらず「シスターフッド」を掲げ、「男VS女」の図式でモノを考えるような系統の「フェミニスト」には、違和感を覚える。

 違和感を覚えるのは Masao さんの勝手だけれど、言外に「自分は違和感を感じるから、フェミニストは変わるべきだ」という主張が見え隠れする。これまた、自分の違和感は他者にとって重大な問題なのだという自意識過剰。具体的に「『男VS女』の図式でモノを考えるような」フェミニストを批判するならすればいいけれど、違和感を感じるからダメだとか、ジェンダーフリーではないからダメだみたいな批判は無意味。

ここらへん、はてぶでのsivadさんの意見「まあ、黒人奴隷解放運動が白人弱者を想定してなかったようなもの。でもそろそろ変わるべきだとも思う。 」に同感。黒人差別の喩え、あまりにも的確で感動しました。

 黒人奴隷解放運動って一体いつの時代の話? まぁその例えに乗るとして、Masao さんは

「そんなに働きたくないのに『男らしさ』に囚われて過労死させられる男性」も、「外で働きたいのに『女らしさ』に囚われて家に閉じ込められている女性」も、どちらも同じように「ジェンダーという社会規範」の被害者であり、同じように不幸

 と言っているのだけれど、これを奴隷制度に当てはめるならば「人種的優越者としての役割に囚われてる白人の奴隷所有者」も「奴隷として過酷な強制労働を強いられている黒人」も「同じように被害者で、同じように不幸」ということになるよ。それでいいわけ? わたしの価値観では、とても「同じように被害者で、同じように不幸」だとは思えないけどなぁ。
 そもそもこの人、「すべての(不当な)社会規範に抵抗する」ような運動をどれだけやっているのかな。まさか、なにもやらずに、いろいろ頑張っている人に向かって「お前はすべてをやっていないから反対する」と言っているわけじゃないよねぇ。


 あ、一応「男女の関係を奴隷所有者と奴隷に例えるなんて現実離れしていて酷い!」という批判が来る前に言っておくけど、その例えが「あまりに的確で感動」と言っているのは Masao さんであってわたしじゃないから、その点お忘れなく。