反論することで自己矛盾が明らかになってしまった Bruckner05 さん

 わたしが前回の反論を書いたあとに Bruckner05 さんは元の記事に批判点1に対応する部分を書き足し、批判点2と3について新たな記事で再反論している。同じ物を読んでまったく違う解釈をする相手とどちらの解釈が正しいのかを論じていても結論は出そうにないので延々と相手にするつもりはないが、とりあえず今回の再批判について対応しておく。


 第1の点は、わたしが『バックラッシュ!』掲載の記事「『ブレンダと呼ばれた少年』をめぐるバックラッシュ言説の迷走」に書いた八木秀次氏らへの批判の是非だ。わたしは文中で八木氏らが脳科学者の記述を選択的に引用することで論旨を歪めていると指摘し、その例として八木氏による新井康允氏らの書籍からの引用をあげた。論文中ではいくつか例があるが、ここではそのうち一つを紹介する。

新井康允氏は、「脳がホルモンシャワーを浴びることによって男性脳、女性脳に分かれる」ということを明らかにしているわけですけれど、船橋氏・大沢氏はそういうことにはまったく言及していません。とにかく、外性器以外は男と女には生物としても何の違いもない、ついているかいないかの差にすぎない、ということを言っているのです。女性学というものがどれほど非科学的なものかということがわかろうというものです。(八木秀次・西尾幹司「新・国民の油断」より、八木発言部分)

 ところが、新井氏はこう書いている。

脳の性差が生ずる誘因として、本書では周生期における性ホルモンの働きを重視して述べてきた。しかし、ヒトの行動の性差、特に性的嗜好などに関して、ホルモンの働きのみで、その行動の異常が決まるというほど単純なものではないだろう。生物学的側面があることは事実であって、おそらく、それに加えて何かきっかけになる社会的なインプットが握っているかもしれない。この点に十分考慮する必要があるだろう。(『脳の性差 男と女の心を探る」より)

 これを読むと分かる通り、新井氏は性自認や性のあり方にホルモンシャワー(周生期における性ホルモンの働き)が重要な働きをすることを指摘している。もし船橋氏・大沢氏が現在もそれを否定しているなら(そうだという確認は取れていない)、かれらは「非科学的である」と言われても仕方がないだろう。しかし逆に、ホルモンシャワーによって「脳が男性脳、女性脳に分かれる」とか、それが「生物学的宿命」だとかいう八木氏の方も、社会的な側面を全く無視している点で科学的ではない。新井氏は生物学的な働きを重視しつつも、社会的な側面も忘れてはいけないと言っているのであり、たまたま生物学的な働きについて語っている部分だけ引用して新井氏が生物学宿命論者であるかのように利用するのは間違いだ。
 Bruckner05 さんが新たに引用しているどの部分も、それを覆すものではない。そして、あれだけ必死になって批判しようとしても論拠となるような記述がみつからないこと自体が、八木氏らの引用が不当であったことを裏付けている。
 ただし付け加えておくと、Bruckner05 さんが引用している部分で同性愛のことを「生物学的レベルの性と出生後の学習による性の連係プレーがうまくゆかない」ことによって起こるとするとする新井氏の記述は、到底科学的ではない。わたしは性的指向は生物学的要素によって大きな影響を受けている(決定されているわけではない)と思っているのだが、どうやら新井氏はわたしよりも社会的な側面を重視しているようだ。この点は Bruckner05 さんとの議論には関係ないが、引用されているので一応言っておく。


 第2の点、Bruckner05 さんは、新井氏はわたしが見たのと同じページに対して激怒しているのだと言っているが、これなどあまり信用ができないソースを通した伝聞にさらに主観的な解釈を加えた説明であり、そんなものを議論の前提にされても困る。仮に Bruckner05 さんの解釈が正しく、新井氏がわたしと同じページをいて激怒したのであれば、それはおそらくその日の新井氏の機嫌が悪かったのではないかとか、たまたまそのパンフを見る前に極端なジェンダーフリー論者(そんなのいるのか?)と議論してしまったとか、そういった外部的な要因に原因があるとしか思えない。というのも、パンフレット自体をどう読んでもにかれが激怒した(とされている)ような内容は書いていないからだ。
 ここは第3の論点にも関わるので、高橋史朗氏による新井氏の言動についての記述をもう一度読んでみる。

 新井康允というですね、順天堂大学の名誉教授と私がたまたまある学会で基調講演を2人がやりましてね、控え室でこの冊子を見せたらですね、脳科学の立場からこういう主張は噴飯ものだと言って怒り始めました。どういう意味かといいますと、この男らしさ女らしさを押し付けていると批判しているジェンダーフリーを主張する人達はですね、「男らしさとか女らしさというのは親が後から躾てそうやって仕組んだんだ」と「後からつくったものだ」と言うんです。また女の子にはピンク色の産着、男には水色の産着を与えるのは固定観念だというんです。ところが、なぜ女の子はピンク色が好きか男の子は水色が好きかというと、それはホルモンの関係だというんですね。ですからメス猿に男性ホルモンを注射すると男の色を求めるようになるというんです。だから後からそういうふうに躾られたんじゃなくて、それはもっと生物学的に脳の性差として脳内物質・脳内ホルモンの影響でそうなっているのであって、ジェンダーフリーなんていうのは非常に非科学的だというんですね。

 なるほど、これを読むと分かる通り、パンフレットはあくまできっかけであり、新井氏は(この伝聞が正しいとすると)パンフレットの内容に怒っているというよりは、生物学的な要素を否定するような一部のジェンダーフリー論者に怒っているのだと分かる。それに対して「パンフレットにはそう書かれていない」と反論しても意味がないという Bruckner05 さんの第3の論点についての指摘は、なるほど筋が通っている。
 しかし一方でそう主張しながら、他方では上記のような新井氏の態度がかれによるこのパンフレットの記述に対する評価であると紹介する Bruckner05 さんは矛盾していないか。かれの激昂がパンフの内容に対するものなのか、それともパンフはきっかけに過ぎずもっと別のことに怒っているのか、どちらの解釈を取るにしてもどちらか一方にして欲しい。Bruckner05 さんはある場所ではパンフに対する見解が新井氏とわたしとでは大きく違うという指摘の根拠としてこの引用部を挙げ、別の場所では新井氏が怒っているのはパンフそのものではなくジェンダーフリー論者一般についてであるとすり替える。矛盾している。
 以上。