論理的弱者との戯れ

 bruckner05 さんの「往生際の悪いmacskaさん」にお応え。

それなら、座談会で一般読者に向けて(中略)なんて宣言をする必要はなかった。(中略)普遍的な妥当性を持つと認めたからこそ、座談会という公的な場所で宣言したわけでしょ。

 もちろん、そんな必要ないです。必要に迫られて発言しているわけじゃないですから。
 「〜と宣言する必要があった」という前提を疑わず、「必要があったということは、〜と認めたのだろう」と勝手に論理を展開していますが、前提が間違いだから意味ありません。

性役割期待からの自由化」がジェンダーフリーだということに異論はない。一般的な定義としてはだいたいそんなところだろう。

 はい、じゃあ議論終了。

しかし私が言っているのは、「性役割期待からの自由化」は「性差のない状態の強要」と同じだということ。自由化は性差のない状態をもたらし、社会の大多数はそれを望んでいないのに強行すれば、強要してるのと同じだから。

 「自由化は性差のない状態をもたらす」とまるで必然であるように言っているけれど、論理的に明らかに間違い。もし社会の大部分が性役割分担を望んでいるのであれば、自由化したところで性役割分担は無くなったりしない。もし社会の大部分がある特定の宗教を信仰しているなら、それを信じない自由を認めたところでその宗教が潰れたりしないのと同じ。

一緒くたも何も、実際両者は同じなんだから。性役割期待からの自由化を推し進めれば性差の消去につながることは、macskaさんも認めたこと。

 認めてないです。いくら説得できないからって、勝手に「相手も認めた」と言いふらすのは良くないよ。
 性役割期待からの自由化を押し進めた結果消去される(可能性が、ずっと先の将来にはある、かもしれない)と考えられるのは、性差そのものではありません。ジェンダーという言葉を単なる性差の存在ではなく性差に関する規範と定義するならば、自由化されたものは論理的に言って「ジェンダー」ではない、すなわちその定義を採用する限りにおいて「自由化」が「ジェンダーの解消」に繋がるという当たり前の論理を言っているだけ。性差そのものが無くなると「認めた」ことは一度もありません。


 やっぱり bruckner05 さんは operative definition という考え方が全然分かっていません。「この定義を取ると、その概念についてこういうことが言える」という議論を読んで、文脈自由で「この概念について常にこういうことが言える」という意味だと解釈するくらいだもの。
 論理的弱者に論理を説いても何の実りもないから放っておこうと思ったんだけど、論理や事実を捩じ曲げるだけでは飽き足らずにわたしの主張まで歪曲しているから(もしそういう意図がないのだとしたら、その方がもっと問題)思わず相手にしちゃった。無駄にした時間返せー。