藤原和博・宮台真司『よのなかのルール』から消えたジェンフリ
id:seijotcp さんからのネタ提供。というか1年くらい前に聞いた話だけど、突然おもいだした。
藤原和博・宮台真司の共著に、「成熟社会を担う市民を誕生させる」ために作った「人生の教科書」として『よのなか』『ルール』という本がある。1990年代末に出版されたこれらの本は、2005年に2冊を1冊にまとめた『人生の教科書 よのなかのルール』として文庫本になっている。だけど文庫化される際に改訂された部分があり、以下に紹介するのはなかでも興味深い変更点。
文脈はというと、藤原氏執筆による性同一性障害やトランスジェンダーについての章。架空の性同一性障害者の問いかけとして、以下のような内容が書かれている。
わたしの性転換のこともね、あの裁判からずうーっと考えてきたの。
ほら、最近『性同一性障害』って名前がきちっとついて、人間が生まれながらにもつ“障害”の一つのタイプだなんていわれるようになったでしょ。むかしはただ"変態!!"って指さされて辛かっただけだけど。
でも、好むと好まざるとにかかわらず、もって生まれた生物学的な性によってだけ、そのあとの人生を決められてしまうのは乱暴じゃないかって気がする。男か女かの二つの分類に社会的な役割を押し込めちゃうでしょ。
“個人の尊重”っていってる憲法にも違反するんじゃないかしら。
そういう呪縛から解放されて、お互いが”自分らしく生きる”ことをもっと尊重し合うほうがわたしは大事だと思う。そういうの、ジェンダーフリーっていうんだって。
生物学的な性の役割の押し付けから解放されて、自由に社会的役割を担うことね。最近実施された雇均法の精神にも繋がるんじゃないかしら。だったら、性同一性障害も、大事にしなければならない“個性”の一つだって考えられるでしょ。
ところで……
あなたは、性同一性障害であるわたしの個性を、受け入れてくださいますか?
(『人生の教科書 ルール』1999年刊より)
これが、文庫版ではこうなっている。
わたしの性転換のこともね、あの裁判からずうーっと考えてきたの。
ほら、最近『性同一性障害』って名前がきちっとついて、人間が生まれながらにもつ“障害”の一つのタイプだなんていわれるようになったでしょ。むかしはただ"変態!!"って指さされて辛かっただけだけど。
でも、好むと好まざるとにかかわらず、もって生まれた生物学的な性によってだけ、そのあとの人生を決められてしまうのは乱暴じゃないかって気がする。男か女かの二つの分類に社会的な役割を押し込めちゃうでしょ。
“個人の尊重”っていってる憲法にも違反するんじゃないかしら。
そういう呪縛から解放されて、お互いが”自分らしく生きる”ことをもっと尊重し合うほうがわたしは大事だと思う。最近実施された雇均法の精神にも繋がるんじゃないかしら。だったら、性同一性障害も、大事にしなければならない“個性”の一つだって考えられるでしょ。
ところで……
あなたは、性同一性障害であるわたしの個性を、受け入れてくださいますか?
(『人生の教科書 よのなかのルール』2005年刊より)
これを見ると分かるように、2005年版では「そういうの、ジェンダーフリーっていうんだって。生物学的な性の役割の押し付けから解放されて、自由に社会的役割を担うことね。」という部分が削除されている。
もともとこの記述は、ジェンダーフリーという概念を「(人々が)お互い『自分らしく』生きることを尊重し合う」「性別による役割の押し付けから解放され、自由に社会的役割を担う」と解釈していて、一部の批判勢力が言うような「過激なジェンダーフリー」ではない。それに、ジェンダーフリーという用語を削除してはいるけれども、理念としてはまったく同じものを主張した文面になっている。
つまり、この場合藤原氏はジェンダーフリーという用語をきちんとした意味で、また理念的にも賛同して使っていたはずなのに、どうしてバッシングの強まった2005年の版では削除しちゃったのだろうか。一部の問答無用な「ジェンダーフリーバッシング」に迎合したのか、それとも藤原氏自身「ジェンダーフリーという用語は使うべきでない」という認識に達したのか、どうなんだろう。