まだシンポジウム報告前半までしか公開してないけど…

 本家エントリ「重度障害児に対する「成長停止」をめぐるワシントン大学シンポジウム報告(前編)」についてのはてなブックマークより:

# 2007年05月23日 jrf 社会学, 健康, 30p, ポイント不可 一般になぜ別の医師や倫理委員会ではだめなのか。リスクも受け容れる社会の連想から、私は処置を果断にする者も基準に合っても処置を引き伸ばすような者も必要であると思う。法律家ならばふさわしいとも思えない。

 そもそもの発想からすれば、法律家だから正しい判断ができるとかそういう話ではないのね。そうじゃなくて、親の利害はかれら自身によって(この場合ではさらにかれらの弁護士によって)代弁されているし、医師の立場も倫理委員会によって代弁されているのに、肝心の患者の利害がまったく誰にも代弁されていないわけ。もちろん親や医者は患者の利害についても考慮しようとはするだろうけど、仮に親や医者の利害に反することになったとしても患者の利害だけを何よりも優先して主張する人がどこにもいない。
 つまり法定代理人 guardian ad litem に求められるのは、ただ単に別の視点から判断を下すことではなくて、他の誰の利害に反しようとも患者の利害だけを徹底して主張すること。そして、そういう代弁のプロと言えば弁護士でしょ。もちろん、必要と思えば弁護士は証人として医者を呼ぶこともできるわけだし。
 さらに言うと、発達障害者に対する不妊手術をする場合、法定代理人はただ「患者の利害」を漠然と主張するのではなく、敵対的審理 adversarial proceeding が必須とされています。すなわち、代理人は必ず不妊手術に「反対」の立場で論を張ることが義務とされているのね。なぜかというと、優生主義の歴史において、患者の権利を守るべき弁護士までが親や医師に同調し、社会防衛もしくは親の都合を優先して不妊手術容認にまわることがあったし、今でもそういうシナリオがありえるから。不妊手術を要求する親や医師の意見と、それに反対する代理人の議論が出揃うことで、裁判官による公正な判断がくだされるーーということには必ずしもならないのだけど、制度上そういうことになっているわけです。
 このあたり、いかにも米国的な考え方だとは思うだろうけど、とにかくそういう制度になっているので、米国において患者の権利を確立するためにはそういう制度に乗っかるのが一番近道だという話でした。
 ただ、もちろん法廷を介在させない形で倫理委員会を改善することはできると思う。例えば、今回の症例では倫理委員会にアシュリーの両親が招かれて委員たちの前でプレゼンテーションをしたのだけれど、治療を要求する立場のプレゼンテーションだけを聞いた上で判断したことが間違いだったように思う。親のプレゼンテーションを聞くのであれば、同時に倫理学者なり法学者なりを呼んで、「最も説得力があると考えられる反対論のプレゼンテーション」をしてもらえば、倫理委員会はより公正な判断を下すことができるかもしれない。 adversarial proceeding と似たプロセスを、倫理委員会の中に作るわけ。
 とにかく、倫理委員会だって人間なんだから、目の前にいる両親の話を聞けばそれに感情的に影響されないわけがない。だからこそ、そこから一歩下がってより冷静な判断ができるようにするために、倫理委員会のあり方を制度的に変えなければいけないと思う。