討議的民主主義 vs. 参加的民主主義ーー「活発に政治参加する市民」が胡散臭い理由

 シカゴ大学法学部ブログではじまったグレン・レイノルズ(テネシー大学法学教授、保守系ブロガーInstapunditとして有名)との対論において、キャス・サンスティーンが政治学者ダイアナ・マッツの『Hearing the Other Side: Deliberative Versus Participatory Democracy』を引いて集団分極化について面白い指摘をしている
 サンスティーンの『Republic.com』(『インターネットは民主主義の敵か?』)では、集団分極化のメカニズムが人々を分断し、先鋭化を起こすことが懸念されている。しかしそうした先鋭化は、同時に人々の政治参加の動機を著しく強めることにもなる。もし自分たちに何が正しいか分かっており、敵対者はとんでもない悪人かバカのどちらかであるなら、自分たちの主張を通すためにより深く政治活動に関わろうと思うようになる。
 逆に、閉鎖的なエンクレーブに閉じこもることを良しとせず、先入観を抑えて多様な視点や主張について学ぼうとする人は、自分がもともと持っていた考えが必ずしも絶対でも完全でもないことを自覚し、また反対意見にもそれなりのメリットがあることに気付く。その結果、かえって政治参加への動機を失うことになる。
 サンスティーンはさらに、一部のブロガーが半ば意識的に「分極化興行主」としてふるまっていると指摘している。「分極化興行主」は積極的に集団分極化を起こして読者を巻き込むことによって影響力を得ている。サンスティーンが『Republic.com』で述べている通り、集団分極化には民主主義にとって問題もあるが、人々の政治参加を促しているという点はまぎれもない事実だ。
 マッツの本に「討議的民主主義 対 参加的民主主義」というサブタイトルがついているのはこのため。市民の政治参加は民主主義に不可欠だけれど、実際に活発に政治参加している人を見るとどうもちょっと偏った人たちが多いように見えるのは、こうした構図が影響しているのかもしれない。
 もし多様な視点の共存を前提とした討議的民主主義を追い求めることがーーわたしはまさにそれを希望しているのだけれどーー人々の政治参加への動機を遠ざけることになるとしたら、それは容易に「多様な視点を容認できるわたしたち」というエリート主義に変質しかねない。それでは集団分極化の罠から逃れられないのだから厄介だ。
 とりあえず、ダイアナ・マッツの本を取り寄せてみようっと。