小谷野敦さんによる卑怯な顕名批判

 わたしの友人でもあるブロガー・荻上チキさんの実名を小谷野敦さんがブログで暴露した。というか実名そのものを暴露したわけではないけれども、少し調べものの上手な人が調べればすぐに分かる程度のヒントを書いた結果、すぐに匿名掲示板や他のブログで実名が書かれる事態になった。

 九月にここで、ちくま新書が出たら荻上チキの実名を明かす、と書いたら、ほどなくチキから、やめてほしいという懇願メールが来た。会社で仕事をしているので、顧客などに知れるとまずい、というのだ。
(中略)
 しかし、それから三ヶ月たって、やはり、東大の院修了という身分を明かし、なおかつ変名というのは、卑怯だという念が消えない。それでチキにまたメールして訊ねたが、やはり困るという。そして私が実名を明かしたらそれは卑怯だという。私はそうは思わない。
 そこで、ちょっとだけ明かすことにする。指導教員は「天皇在位十周年」の人である。姓は「お」で始まり、名は、音読みすると「チキ」になる。
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20071218

 小谷野さんは匿名批判は卑怯であるという考えの持ち主で、このことは常々から主張していた。でもかれは、場合によっては匿名もしくはペンネームによる言論に意義が認められる、とも発言している。

 ある場合における匿名批判の意義は認める。自分が勤める企業の内部告発とか、自分の生殺与奪の権を握るような大物への批判とかである。
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20070915

 なぜ「自分が勤める企業の内部告発とか、自分の生殺与奪の権を握るような大物への批判」の場合であれば匿名もしくはペンネームによる言論が認められるかといえば、それは批判者がどこの誰なのか分かってしまうと批判対象による報復が懸念されるからであり、さらに言えばそうした懸念のために社会にとって有意義な批判や批評が世間に出なくなるから。
 チキさんの場合、批判対象による直接の報復は――まったくありえないこともないけれど――あまり考えられないかもしれない。それでも、チキさんは顧客と直接向き合う仕事をしていたわけだから、私的な時間に行なった言論活動が実名と結びつけられた結果、顧客との関係において周囲に迷惑をかけてしまうということは十分に起こりうる。チキさんが就職したばかりの新入社員だったことも考えれば、周囲に迷惑をかけてしまったら会社の中で立場をなくしてしまい、やっていけないと感じるのも当たり前。
 それでも「覚悟の問題だ」と言うのであれば、内部告発や大物への批判だって覚悟を決めてやれと言うべき。それでこそ一貫した態度でしょ。もし逆に、自分の生活に関わる場合は匿名やペンネームも認めると考えるのであれば、チキさんの置かれた状況がそれに該当しないと、一体どのようにして小谷野さんは確証を得たのか。人の生活がかかっているというのに、もし何の確証もなく実名を晒した(ヒントだけ出したと言うかもしれないけれども、実質同じこと)としたら、それこそ実名主義がなんら責任ある言論をもたらさない証左。
 てゆーか、この例からも分かる通り、卑怯な批判は匿名であろうがなかろうが卑怯なんだって。


 そーいえば、どこかで「小山エミは macska の筆名」とか書いていたバカもいたけど、笑えるので許す。