最終まとめということらしいので、これで終わりにして欲しいところ。
苺畑カカシさんが、わたしの疲労感まで考慮してここ数日の議論について「最終的にまとめて」くださるらしい。わたしが疲れちゃうのはカカシさんの議論姿勢が、とにかく相手を左翼だマルクス主義者だジェンダーフェミニストだとレッテル貼りするだけで論理が通じないことが理由なんだけど、わたしの「疲れ」まで考えてくれるならまずそっちをなんとかしていただきたいところ。まぁ期待できないのはこれまでの議論で分かってるけどさ。
まず、macskaさんは、だいたいジェンダーフェミニズムとかエクイティフェミニズムなどという言葉使いは一般的ではなく、フェミニズムをジェンダーとエクイティに分けるなどという概念自体が存在しないとおっしゃる。
(略)
しかしながら、カカシは最初からジェンダー・エクイティという定義が一般的にフェミニストたちに受け入れられているなどとは主張していない。はっきりいってフェミニストがこれらの定義を受け入れる入れないは重要ではないのである。ジェンダー・エクイティの概念は単に現在のアメリカのフェミニズムを説明するにあたりホフ・ソマーズが作り出した定義にすぎず、私はそれに従ってアメリカのフェミニストたちを分析しているだけだからだ。
http://biglizards.net/strawberryblog/archives/2008/01/post_626.html
はい、ではカカシさんが最初どういう風に発言していたのか、もう一度みてみましょう。
瀬戸さんのブログを読んでいたら、瀬戸さんがジェンダーフリーという言葉を使っているのが目に付いた。実を言うと、私はェジェンダーーフリーという言葉を今まであまりきいたことがなかった。アメリカのフェミニズム、つまり女性運動は一般にジェンダー(性別)フェミニズムと*エクゥイティ(平等)*フェミニズムに分かれるが、ジェンダーフリーというのはその言葉からして性別を完全に無視したものという印象を受ける。
って、いつの間にか「クオリティフェミニズム」が「エクゥイティ」に直ってるよ!(笑)
ま、訂正してくださったのは良いのだけれど、ここでカカシさんは「現在のアメリカのフェミニズムを説明するにあたりホフ・ソマーズはフェミニズムをジェンダーとエクィティの二つに分類している」とは書いていない。「一般にフェミニズムはジェンダーフェミニズムとエクィティフェミニズムに分かれる」、と、まるでそれが一般的な用語であるかのように偽装している。だからわたしは「それは一般的ではない」と批判したのであって、はじめから「ソマーズという学者がこう言っている」と説明していれば、それで良かったのよ。
というわけで、この点についてはカカシさんが自分の間違いを認めた、ということで終了しときますね。(なるほど、議論のまとめになっている。)
ジェンダーフェミニズムとエクイティフェミニズムの決定的な違いは全体主義と個人主義の違いである。ジェンダーフェミニストは女性を女性というグループの一員として考え、その目的は女性の地位向上にある。だから女性というグループ全体が冷遇されれば怒るが優遇される場合は大歓迎する。それに反してエクイティフェミニストは女性を一個人として考え、女性も男性と同じ機会を与えられ同じ基準で試されるべきだと考える。であるから不公平な待遇はそれが冷遇であろうが優遇であろうが受け入れない。
だからそれが、我田引水の定義だと言うの。ソマーズが「ジェンダーフェミニズム」と呼んで批判している人たちは、女性を不当に優遇すべきだと主張しているわけではありません。みんな「同じ機会」を与えられるべるべきだと考えたうえで、なにをもって「同じ機会」だとするかに異論があるわけ。
「アファーマティブアクションは女性やマイノリティに対する不当な優遇である」とカカシさんが主張するなら、それはそれで一つの意見としてアリだと思うのね。でも、「アファーマティブアクションを支持する人たちは、女性やマイノリティを不当に優遇しようとしている」という主張は、自分と意見が違う相手に、不当な動機を勝手に見出しているだけであり、大抵の場合それは間違っているの。それは逆に一部のアファーマティブアクション推進論者が「アファーマティブアクションに反対する人は差別主義者である」と決めつけることの裏返しでしかない。
ほとんどの場合、アファーマティブアクションに賛成する人はそれが平等な機会を実現すると考えており、アファーマティブアクションに反対する人は逆にそれが不平等な制度だと考えているわけ。両者のあいだでは、何をもって平等であるとするのかとか、機会の平等を実現するにはどうすればいいのかという論点において意見が違うわけで、「男女どちらにも公平な制度が望ましい」という点は論点にはなっていないのね。だからこそどうすれば平等になるのか議論する価値があるというものだけれども、「お前は女性優遇論者だ」「お前こそ女性差別主義者だ」というレッテル貼りの応酬は何も生み出さない。恥ずべき行為ですね。
数が少ないだけで差別があるとはいえないというなら、それ以上の説明は必要ないはず。それでもどうしても説明をつけたいなら、男女の学力審査が均一である限り答えはノーとすればいい。アファーマティブアクションは男女間においては完全に女性優遇のシステム。この場ではそれ以上の説明は必要ない。
数が少ないだけで差別があると決めつけるのは暴論だけれど、だからといって差別がないと決めつけるのも暴論。具体的な状況に応じて、差別があれば対処すべきだし、なければ必要ないという、ごく当たり前のことを言っているだけなのに、カカシさんはそれは女性優遇論でありジェンダーフェミニズムだと決めつけるわけですね。つまり、カカシさんは「差別があると決めつける」行為を批判するふりをしながら、実は「差別があるかもしれない」という可能性すら否定してしまっているわけ。
アファーマティブアクションについても、機会の不平等が存在するのであれば容認できるかもしれないし、そうでなければ実施すべきではない。個別の具体的な状況を見ずに、アファーマティブアクションは絶対にあってはならない、と決めつけるのはおかしいと思うわけ。
macskaさんが単に男女平等を求めるエクイティフェミニストであれば答えは非常に明白なはず。それをごちゃごちゃ言い訳をして答えようとしないのは彼女自身、自分がホフ・ソマーズのいうジェンダーフェミニストだということを十分に承知しているからだ。
いやだから、そんな分類は「ジェンダーフェミニスト」という虚像を作り上げて叩くだけのために存在する無意味なものだというのが、なんで分からないの? 「ごちゃごちゃ言い訳をして」って言うけど、具体的な状況に即して対処を決めるべきだというのが、なんで「ごちゃごちゃ言い訳」になってしまうのかな。わたしはカカシさんのやるような単純化された勇ましい断言の方がおかしいと思うけど。
女性優遇に賛成しないという点では、わたしとあなたは合意しているわけ。そのうえで、どういう状況が平等であるのか、あるいはどういう社会政策によって平等を実現するのかという点において、議論が分かれているわけでしょ。わたしの立場は、「同一の基準」が必ずしも平等であるとは限らないし、もし不平等が存在するのであればアファーマティブアクションのような政策も排除すべきではないという考え方。あなたの立場は、同一の基準でさえあればそれは平等とみなすべきであり、アファーマティブアクションは全面的に禁止すべきだという考え方。意見が違う同士で、実のある議論は可能だと思ったのだけれど、「お前はエクィティフェミニストか、それともジェンダーフェミニストか」という不毛な二分法を振り回すだけのヒトだったとは、失望したな。
読者の皆様はもうお気付きだろうが、macskaさんは私が彼女のことを左翼だの共産主義者だのレズビアンだのと呼んだことに関して「自分はそうではない!」と何度もヒステリックに怒鳴ってはいるが、ではいったい自分は何を信じているのかという説明を一度もしたことがない。
ソマーズの本のこの部分にでてきた人たちに近い立場だ、と書いていますね。
だいたい、わたしは「知りもしないで決めつけるな」とは言っているけど、「自分はそうではない」とヒステリックになった覚えはないよ。例えば左翼だという決めつけについて、定義によってはそうかもしれないが、どういう定義で使ってるのか説明して欲しいとわたしは書いているわけだけど、どこがヒステリックなんだろう。
つまり、左翼とはこういうひとたちのことをいうが、私の信じるのはこういうことで左翼とは全く違うとか、マルクス主義フェミニストはこういう方針だが、ここが私と彼女たちとの決定的な違いだとかいう説明がない。自分はポリティカルレズビアンは嫌いだとは言ってるが、どうして嫌いなのかという説明はしていない。
カカシさんが「あなたが左翼でないとするなら、なにを信じているのだ」と質問していれば答えたけど、これまでの議論ではわたしから説明するような流れじゃなかったでしょ。まぁ過去エントリを見れば、いろいろ明らかにしているんだけど。
せっかくなのでこの機会に答えておくと(ていうか過去エントリを見れば分かるけど)、わたしはポスト・ロールジアンのリベラリストを自称していて、自由主義者なんだから左翼とは違うと思っています。また、市場経済を支持しているので社会主義者でも共産主義者でもないと思っています(例えば、イランにおけるガソリン危機について書いたエントリあたり参照)。
ポリティカルレズビアンが嫌いな理由は既に述べました。「主に異性愛者の女性たちが、レズビアンという存在を自分たちに都合のいいように勝手に解釈し、植民地化して名乗ったもの」という記述を読めば、どうしてわたしがそれを批判しているのかは明らかでしょう。
macskaさんが明かにしないのは自分のフェミニストとしての姿勢だけではない。私は最初に彼女がバックラッシュという本の宣伝ブログの経営者のひとりであることを知った時、彼女も著者のひとりなのだろうと思ったのだが、アマゾンに載っていた宣伝には著者の名前が四人しかなく、彼女らしいひとはいなかったので思い違いだったのかと思っていた。バックラッシュの話題がのぼった時もmacskaさんはバックラッシュについて自分が関わった本とは書いていたが自分が共著者であるという事実をあきらかにしなかった。
あのー、その本にわたしが寄稿していることは、これまでさんざん明らかにしていますが。わたし的には、「関わった」と書いたら、もう一度チェックして、わたしが著者の一人であることに気付いていただけると思ったんだけどね。ていうか、アマゾンの商品説明ページにも、わたしの本名(じゃなかった、「小山エミはmacskaの筆名です」)が出てるしさ。
間違い1:リベラルの政策は減税と小さい政府。
だから、最初から、「学問的には」小さな政府を支持する人をリベラルと呼ぶ伝統がある、と書いているでしょ。現に、学問的にはその通りなんだから、あなたの方が学問の常識を知らないだけ。ていうか論点逸らさないでよねー。
ソマーズは政治評論家ではなく哲学者なんだから、政治哲学上の分類で「自分はリベラルである」と自認していても全然おかしくないでしょ。
間違い2:デイビッド・ブロックはゲイだとばれて保守派に見放された。
確かに、ゲイだとばれて見放されたというのは、単純化していました。
実際のところ、カカシさんが言うように以前からかれがゲイであることが一部では知られていた、というのは事実で、保守派にとって都合のいい記事を書いているうちはそれが問題にならなかったのに、ヒラリー・クリントンについての本を出したところで、ゲイであることを含めて問題とされたわけですね。
それより問題なのは、カカシさんはこの人物がのちに著書で「スケイフの指示で、クリントン大統領について事実無根のスキャンダル記事を書いた」と白状していることを承知のうえで、当時かれが書いた記事にデマがあったというわたしの指摘を全否定して、わたしがデマだというのはわたしが左翼である証拠だとまで言ったんですね。酷いなぁ。
NOWがタリバン批判をやめたのはアフガニスタン戦争が始まった時であり、タリバン崩壊後のことではない。NOWがタリバン批判をやめたのはアフガニスタン戦争が始まった時であり、タリバン崩壊後のことではない。それにNOWはあれほどタリバン政権に関してブッシュが何もしていないと批判していたのに、いざブッシュ政権がタリバンと戦うことになった時ブッシュ政権を応援しなかったのはなぜだ?それにNOWはあれほどタリバン政権に関してブッシュが何もしていないと批判していたのに、いざブッシュ政権がタリバンと戦うことになった時ブッシュ政権を応援しなかったのはなぜだ?
NOW は外交的手段によるタリバンの女性迫害の停止を求めていたのであって、戦争によってタリバン政権を潰すことを支持していたわけではないので、当たり前では。
ちなみに、米国がタリバンに攻撃を加えたのはクリントン政権の時が最初だけど、その時だって NOW は「女性を迫害するタリバンを倒せ」などとは主張しなかった。ブッシュ政権だから応援しなかったわけではない。
それはそうだけど(勝手に「知らない」と決めつけるなっての)、ゲリラ的攻撃をしているだけの組織を批判するよりは、今ある政権によって女性の権利が守られるように求める方が優先順位が高いのでは。少なくとも、アフガニスタンの女性による現地の女性団体はそう判断しているわけで、タリバン憎しのあまり米国の女性団体がかれらの活動方針に口を挟むべきではないと思うけどね。支援するなら、物質的な支援を行なえば良いわけで。
macskaさんは以前に『NOW がタリバンやイスラム教原理主義による女性迫害を取り上げていないという点も、まったくのデタラメ。』といっていたのに、それがでたらめでないことをカカシが証明したら、とたんに『どうしてNOWがイスラム教批判をしなくちゃならないんですか』と開き直ってしまった。
はぁ? タリバンやイスラム教原理主義による女性迫害は批判すべきだし、現に批判しているけれども、宗教としてのイスラム教全体を批判する必要はないでしょ。これはキリスト教でも同じで、キリスト教の名のもとに女性の権利を侵害するのは批判しても、キリスト教自体を批判しないのが適切。
全然自然じゃないです。例えば、キリスト教の名のもとで女性の権利を制限しようとする人たちがいたとして、キリスト教を批判することで対抗すべきですか?
この問題も、イスラム教徒のフェミニストがたくさんいるので、彼女たちを中心として、それ以外のフェミニストは主に物質的・経済的な面で支援するのが良いとわたしは思う。しかしもしイスラム教徒でないフェミニストが、イスラム教自体を批判するようなことがあれば、イスラム教徒のフェミニストたちの活動を阻害することになってしまうよ。
女性の人権を守るはずのフェミニストがこれらの女性への暴力に沈黙を保つのは何故だ?
だから、全然沈黙していないんですが。
アメリカ人は基本的に他国のことにあんまり関心がないので、フェミニストも国外のことに関心を持たない人が多いけど、関心を持っている人はそれがイスラム教の名のもとに行なわれる行為であろうと、それ以外の宗教の名のもとに行なわれる行為であろうと、ちっとも沈黙してないよ。
むしろ、米国のフェミニストが当地の状況を十分に理解せず、善意による関与で現地のフェミニストの邪魔になっているケースの方が目立つくらい。そっちもなんとかして欲しいんだけど。