議論のようなからっぽ

 空(これ「そら」だと思っていたんだけど、よく考えたら「から」なんだろうね)の人とのお話、多分最終回。

また、始まった。「いってないいいいい!!!いってないよおおお、いってないってばあああ!!」
http://blog.goo.ne.jp/kentanakachan/e/8ac082048723ffe5392b22164741c06d

 いやさ、だから本当に言ってないでしょ。言ってないことを「言った」と決めつけられても、「それは言ってない」以外にどういう返答のしかたがあるわけでしょうか。
 わたしが「言っていない」というのがおかしいと思うなら「ほら、ここで言っているではないか!」と直接引用でもすればいいのに、こうやって人をからかうことしかできないという事実が、批判がでっちあげに基づくものであったことを示しています。
 続いて、空の人はわたしが「夢さんの『呼びかけ』は駄目だから賛同しない」と書いたことについて、

あら?「そういう路線があっても悪くはないので、夢さんはご自由にどうぞそういう路線を推進してください、とも言っています。」と言っていたのは論者であるが、またまた心変わりであろうか?

 と書いている。別に心変わりなんてしてなくて、夢さんの「呼びかけ」は有効ではないとわたしは思っているけれども、わたしの判断が常に完璧なわけではないから、わたしが「有効ではない、駄目な提案だ」と思っていた路線が案外成功するという可能性だってないわけじゃないでしょ。
 わたしは夢さんの路線を批判するけれども、同時に自分とは違った意見や路線を掲げる運動がいろいろあってもいいという考えなので、夢さんがそんなに強く自説を主張するなら、どうぞご自由にその路線を突き進んでください、と言っています。
 これも、とっくに元エントリのコメント欄で説明したことなんだけど。

論者は、自説は語ったというが、夢氏と異なり語っていない点がある。それは、韓国軍米軍の被害にあった性的奴隷の方々に対して、韓国米国でなんの動きもない現状で、論者が、いかにその救済に努めていこうとするのか、というビジョン、態度表明ないし、理論である。

 個別の責任を個別に問うことで、国際的な基準を有機的に作って行くべきである、と言っていますね。日本の責任を問うのもその一部となるはず。
 なんだこの人、言っていないことは「言った」と決めつけるくせに、はっきり何度も書いていることは「語っていない」と言うんだね。わけわかんないー。

議論の吟味ということに集中すれば対論というのは面白い作業なのであるが、自説の矛盾や動揺があらわになり、奇妙な自己防衛にだけまわってしまっては、さぞかし議論も苦痛だったかもしれない。

 そんなに空の人が苦痛を感じていたとは。
 とはいえ、言っていないことを「言った」と叩き、はっきり言ったことを「言っていない」と叩くのでは、こちらは「それは違う」と指摘し続けるほか反論のしようもありません。
 もちろんそれとは別に、夢さんの提案が良いのか、わたしの案が良いのか、という点で議論は可能なんです。でもそれを議論するには、両者の案がそれぞれどういうもので、どの点で違うのかということを分かっていなくちゃいけない。空の人は、それを全然分かっていないのだからどうしようもない。一度退場して、まともに議論する気になったら出てきてください。


 ところでその空の人のブログ(っていうかそれは「空」でいいのか)で空の人と議論している人がいて、別の人がその人はわたしと同一人物ではないかと言っている。

なんか文章が似てますね。
上から目線といい。
macskaさんの文章も回りくどくてわかりづらい、なんて書くと「あなたの理解力の欠如」なんて言われちゃうのかしら?
くわばらくわばら。
http://blog.goo.ne.jp/kentanakachan/e/ced5ec900ae0a170c58d791b0f7e75d1

 全然似てないんですが(笑)