個人主義を徹底させるのがジェンダーフリーでしょ。

 カカシさんがごちゃごちゃうるさいので簡単に。

そこで先ず、今回はジェンダーフリーを押し進める人々とは、いったいどんなひとたちなのか、という話から進めてみたい。
http://biglizards.net/strawberryblog/archives/2008/03/queerhentai.html

 あー、わたしはジェンダーフリーを推し進めた覚えないんですがー。ジェンダーフリーはこんなに酷い、とばかりに現実離れした無茶苦茶な批判をする人がいるからそれに反論はしたけど、ジェンダーフリーそのものを支持してないよ。どうしてジェンダーフリーが駄目なのかは、過去にいろいろ書いてきましたし、カカシさんも参照している山口智美さんの意見に賛同しています。
 まぁカカシさんのことだから建前ではそう言うが本音では支持しているのだ、とか言うのだろうけど、それは批判でも批評でもありませんから。そんなレベルで良ければ、「カカシさんは建前では個人主義を主張しているが、実は共産主義者なのだ」とかわたしだっていくらでも言えます(笑)

小山にとって自己というものは存在せず、小山の存在は小山の周りにいるひとたちが小山にどう反応するか小山をどう見るかによって決まるというのだ。だから人間としての基本ともいえる性別さえ小山には確定することが出来ないというのである。自分の自我を他人の目に映った反映でしか確認できない人間とはなんと悲しく情けない存在であろうか。

 自己が存在しないとは言っていません。自己はあるけれども、それは生まれ持った傾向や身体性とともに、わたしを取り巻く社会関係や環境によって規定されていると言っているのです。だいたい、「自分を取り巻く社会関係」には当然自分だって含まれるわけで、自己が存在しないという意味にはならないのでは。
 世界中がそれを認めなくても自分にとっての自分はこうだというような、いわゆる「自我のコアとしてのアイデンティティ」は、近代西洋文化における一種の信仰に過ぎないものだと考えています。わたしにとってアイデンティティとは「自分はこうである」という本質的なものではなく、よりリレーショナルなものだというだけの話なんですけど。

どうりで小山エミは個人という単位を軽視するわけである。自身の価値を見極めず、常に全体の中でどこに自分が位置しているかということでしか自分の価値を見いだせないという考え方こそ社会主義(左翼)の根本的な思想である。

 いや、自我に対するこうした考え方は社会主義や左翼思想ではなく、中観派仏教の教えから導き出した認識なんですけど… もしかして仏教は社会主義なのか!?
 だいたい、「個人主義」を徹底させるのがジェンダーフリー思想ですよ。男性とか女性じゃなくて、それぞれの個性が大切だという考え方なんですから。それに対して伝統主義的な保守の立場に立つ論者が「行き過ぎた個人主義は良くない」「男女の違いをきちんと踏まえた教育をしろ」と主張するのは筋が通っているのだけれど、あれだけ個人主義個人主義と言う人がジェンダーフリーに反対というのは筋が通っていません。
 あと、ジェンダーフリーの議論も例によって変な解釈だらけなんだけど、それを指摘したらまた「ジェンダーフリーを推し進めている」証拠にされてしまいそうなので放っておきます。もはやジェンフリなんて誰も言ってないし、どーでもいいので。
 てゆーか、カカシさんはもう特定の相手に対する個人攻撃はしないって決めたんじゃなかったんですか?
 わたしの意見を批判するのは自由だけれど、それは批判されたものが実際にわたしの意見であった場合の話です。わたしの本音はレズビアンフェミニスト共産主義ジェンダーフリー主義だとか勝手に決めつけて中傷するのはやめてくださいね。もしジェンダーフリー批判が目的なら、そもそもわたしの隠された本音を話題にする必要ないですし。