間違え探しでもやっておこうか

 誰も期待していないカカシさんシリーズの続き。「ジェンダーフリーは自由社会を破壊する」というエントリについて。
 ただし、議論を通しての歩み寄りは期待できないので、事実として怪しい部分の指摘を中心に。

なぜ一夫一婦制が合憲かどうかなどという審議が今さら必要なのか、同性結婚推進者の理屈は、異性同士の結婚が許されるのに同性同士の結婚が許されないのはどの個人も同等の権利を保証されるという憲法に違反するというのである。
 彼等にいわせると、異性愛者は好きなもの同士で結婚できるのに、同性愛者にそれができないのは不公平だというわけだ。しかし、異性愛者同士でも好きなもの同士なんの規制もなく結婚できるかといえばそうではない。
http://biglizards.net/strawberryblog/archives/2008/03/post_667.html

 だから、異性カップルと同等の規制に従う限り、同性カップルも同等の権利を認められるべきだ、というのが同性婚推進派の論理ですね。わたしは結婚を特権的な関係として国家が管理する制度自体をあんまり積極的には支持しないので、この立場ではないけれど。(ちなみに、それをあんまり積極的に否定もしないのは、結婚を特権化する公的制度はリベラリズムの原則からどちらかというと望ましくないとは思いつつ、現実に多くの人が生きている制度を頭ごなしに否定しちゃうのもどーかと思うから。)

無論、アメリカでは異人種同士の結婚が禁止されていた時期があった。その法律は撤回されているので、これと同性結婚の規制とどういう違いがあるのかという質問は出てくる。
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第一異人種間の結婚禁止令は法廷によって違憲とされて覆されたのではなく、アメリカ市民が異人種間の違いは全く問題がないとして、議会を通して既存の法律を廃止したのである。一夫一婦制度はアメリカ市民の大半が支持しており、異人種間結婚の規制とはまるで性質が違う。

 あのー、Loving v. Virginia って判例ご存知じゃありませんか? その判決によって、当時16州において残っていた異人種間結婚規制が廃止されたのだけれど。その当時、それら16州の住民の多くが異人種間結婚規制を支持していたというのが事実であり、同性婚をめぐるいまの状況とほとんど同じ。

日本では同性結婚などというものは起こりえないとみなさんがお考えなら、甘い、と申し上げる。アメリカでも同性結婚など大半の市民が認めていない。にも関わらずあちこちの州で同性結婚が法廷を通して州民に無理矢理強制されるという事例がすでに起きているのである

 えー、わたしは「日本では同性結婚などというものは起こりえない」とは全然思わない(むしろ日本の方が抵抗が少ないのではないかと思う)けどな。
 それはともかく事実を確認しておくと、法廷を通して同性婚の導入が強制された例はこれまでのところマサチューセッツ州だけ。そうならなかった例としては、たとえばハワイ州では全国に先駆けて「同性愛者に結婚の権利を認めないのは違憲」とする判決が出たけれども、「だったら憲法の側を変えてしまえ」と改憲して違憲状態を解消してしまった。マサチューセッツ州は、憲法改正に時間がかかる制度を持っているためにそれが間に合わずに同性婚が導入されたのだけれど、憲法を変えようという動きはある。
 それに対してヴァーモント州では、同様の判決が出たあとに、結婚ではなく「シビル・ユニオン」という名義で、同性カップルにも州内ではほぼ同等の権利を保障するという解決法が取られた。米国では過半数の人々が同性婚導入には反対しているけれども、かれらの多くは「結婚」という呼び名を取らないのであれば同等の権利を認めることには反対していない。「同性婚には反対、平等には賛成」が米国のマジョリティの意見だ。
 わたしの住むオレゴン州の場合、結婚とほぼ同等とされる「ドメスティックパートナー」制度が議会によって可決され、州知事の署名を得て法律となった。ところがそれに対して「違憲だ!」として裁判を起こしたのは、なんと同性婚反対派の側だった。住民の代表である議員たちが同性カップルにも権利を認めると言っているのに、法廷を通して「異性カップルだけの特権」を無理矢理強制しようとしているわけだ。
 結局、同性婚賛成派も反対派もすぐに裁判を起こして憲法判断を仰ぐのは、同性婚賛成派が特に住民の意志を軽視しているとかそういう問題ではなく、米国特有の法文化の一部だとしか言いようがない。日本はそもそも合憲性を裁判に訴えようとしてもすぐ却下されるし、判決を出すにしても憲法判断を避けようとするのが普通で、同じ状況が起きる可能性はかなり少ない。カカシさんはそうした法文化の違いを理解していないのではないか。

数年前、同僚の若い男性何人かと仕事の帰りに飲みにいった時のことである。テーブルにつくや否や、一人の若い男性が席を立った。しばらくしてこの男性は片手にカクテルを持って戻ってきた。カカシは「エリック、あなたガールフレンドいないでしょ?」と聞くと、彼は不思議そうに私の顔をみて「いないけど、どうして?」と聞いてきた。ガールフレンドがいれば、自分の飲み物だけひとりでさっさと買いにいくなど彼女が許すはずがないからである。彼女のいる男性なら、同席をしている女性に「飲み物買ってくるけど、君も何か飲む?」と聞くぐらいの気遣いはする。

 それは男と女だからというんじゃなくて、単に気遣いできない奴では。
 同性カップルでも、ていうかカップルですらなくて単なる友人や同僚でも、それくらいの気遣いはするよなぁ普通。

アメリカで母子家庭の多い黒人の間で犯罪率が他の人種よりも極端に多いのは決して偶然ではない。父親のいない家庭では男の子が粗雑になるのだ。母親がどれだけ立派でも父親の代わりはできない。

 あのさ、相関関係と因果関係は区別しましょうね。
 一言で論破しちゃったよ。

また一夫多妻制度を取り入れているイスラム諸国やアフリカ諸国を見てみた場合、女性の権利はどこでも極端に制限されている。女性の数が男性よりもずっと多いというのならともかく、一人の男性が多くの女性を妻にめとえば、女性にあぶれる男性が出てくる。そうなれば女性は奪い合いになるから、女性は男性の所有物的扱いとなり外へ出さずにかこっておくという扱いになる。サウジアラビアなどで女性が家族の男性同伴でなければ外出できないなどという規則があるのはまさにこれが理由だ。

 「イスラム諸国やアフリカ諸国」で一夫多妻を認めているところはあるけど、それが可能なのはよほど裕福なごく一部の人たちだけでしょ。それによる available な男女の偏りなんてたかが知れている範囲で、それらの国における女性の地位の低さを説明する主要な要因にはならないのでは。

性結婚を許可することがどうして一夫一婦制度の破壊につながるのかという疑問が出るのは当然だ。しかし社会が決めた結婚への規制をひとつ外せば、他の規制についての見直しも必要とされるのは当然だ。

 Loving v. Virginia 判決の当時には、「異人種間結婚規制を廃止したら、ほかの全ての規制も見直されてしまう!」として反対論を主張していた人もいたそうだけど、カカシさんの論理はそれと全く同じだね。
 「他の規制についての見直しも必要とされるのは当然」なら、ひとつずつ見直したらいいじゃん。その結果、規制することに合理的な理由があると判断されたものについては存続させればいいでしょ。「ひとつ規制をなくしたら、他の規制についても見直さなくちゃいけないから」って、あなたはいつから規制大好きな「大きな政府」論者になったのよ。

好きなもの同士が結婚できるというのなら、血縁者が結婚できないというのはおかしいという理論になる。なぜ兄妹や甥姪では駄目なのかということになる。近親相姦による劣性遺伝の問題も、最近は妊娠中に遺伝子を調べて健康な子供かどうか確かめた上で生めば解決できるのだから。

 いやさ、伝統社会では劣性遺伝の問題が存在することさえ知られていなかったわけだから、血縁者の結婚が禁止されてきた理由と関係ないでしょ。てゆーか、それって優生思想じゃん。

また100人の人間が愛し合っていますといって「結婚」してお互いの扶養家族となって減税の対象となるなどということも大いにあり得る。

 それは議論が必要ですね。でも同性カップルの場合は異性カップルと同じ扱いにしても税制上の問題はないはず。

結婚がどういう形でも許されるということになれば、結婚による特別な関係は意味のないものとなる。

 それは絶対おかしいよ。結婚がどういう形でも許されるということは、どのような意味のものとするかはそれぞれの個人もしくは家族に任される、ということになるだけでしょ。これはたとえば、信教の自由を認めることが、宗教の意義の否定ではないということと同じ論理。結婚がどういう意味を持つかまで、政府が市民社会に介入して押しつける合理的な理由はないはず。
 わたしは「合理的な理由がある介入は容認できる/合理的な理由のない介入は反対」という立場を一貫して表明しているのだけれども、カカシさんはある場合は政府の介入を問答無用で排除しつつ、別の場合は価値観に類する部分への介入まで全面的に肯定したりで、まったく一貫していない。自由主義でもなんでもない。ところが、「現存するありとあらゆる差別をとにかく正当化し温存する」という部分だけは不思議に一貫している。

どっかの左翼変態フェミニストが「個人主義を徹底させるのがジェンダーフリーでしょ」などと大嘘をついていたが、個々の性別を無視することで個人が尊重されるなどナンセンスである。

 うん、だからナンセンスだとわたしも思うのよー。でも、そのナンセンスを主張するのがジェンダーフリー論なんだから。
 こうまで言っても、まだわたしがジェンダーフリーを推進していると決めつけ続けるのかな。