フランシス・コリンズ『The Language of God』読書メモ
ドーキンスと対照的な立場の科学者によって書かれた本として評判の良い(カカシさんもお薦めしていたし)フランシス・コリンズ著『The Language of God: A Scientist Presents Evidence for Belief』を読んでみた。著者はヒトゲノム計画の責任者で、進化論を擁護しつつ科学と信仰は両立するという立場。
感想を簡単にまとめると、科学についての記述はおもしろく、特に著者が指揮したヒトゲノム計画の部分はとても興味を抱かせるのだけれど、信仰と科学の関係についての部分は思ったよりダメな感じ。もちろん、わたしが信仰者でないからというのもあるだろうけど、そもそも著者は科学の分野においてはエキスパートだけれど宗教については単なる一信仰者に過ぎないわけで(といっても、なにをもって「単なる一信者」と信仰のエキスパートを区別するのかは不明)、信仰についての部分にそれほど期待できないのは当たり前か。
書名からは、ドーキンスらに反論し信仰の妥当性を主張するような本であるように見えるのだけれど、実際はそれは本書の中心的な内容ではない。むしろ、読者として想定されるのは進化論が自分の信仰を脅かすのではないかと不安を感じている信仰者たちであり、かれらに向けて進化論の正しさと、科学が解明しきれていない自然現象に神の根拠を求めることの危険さ(なぜなら、科学の進展によってその現象の解明が進めば、神の根拠が失われる)を説明している。要するにわたしは想定外の読者だったわけね。
ダメだと感じたのは、ところどころ主張の根拠となる論拠が弱いところ。たとえば人間は進化論で説明がつかないような種類の利他行為をすることがあるとして、そうした良心の源泉を神に求めるのだけれど、その「利他行為」の例として出されるのがマザー・テレサだったり。でもマザー・テレサは信仰によって慈善活動に動機付けられたわけで、信仰者の存在が神の存在の根拠にはならない。そもそも、「利他行為」から一気に「これは神がいる証拠で、さらにその神はスピノザの神ではなく人格を持ちわたしたちに関心を持っている神だ」とまでいくのは飛躍しすぎ。
あるいは、創世記の記述が文字通り7日間での創造を意味しないという根拠として、創世記の第一章と第二章における創造の順序に矛盾があることを指摘して、「文字通りに解釈したら矛盾してしまうから、これは客観的事実として書き記されたわけではない」と結論付けるんだけど、あまりに無茶。考証学的には創世記の第一章と第二章はもともと別の著者によって別個に書かれたものだと分かっているのだから、それぞれの著者は客観的事実そのものだと思って書いていたかもしれないのに。
あと、これは反進化論に対する反論の部分でなんだけど、「進化の証拠に見えるものは、神がわたしたちの信仰を試すためにわざと進化が起きたかのように意図的にみせかけたのだ」という説に対する反論として、「神がわたしたちを騙すと言うのか? 聖書によれば、神は善良で、フェアで、常に一貫した態度ではなかったか?」と言うのも、聖書をまともに読んでのこととは思えない。聖書をちゃんと読めば、神はそんなにフェアでもなければ一貫してもおらず、現に「進化があったように見せかける」以上に酷い方法で信者の「信仰を試す」ことをやってるけど。
いずれにせよ、タイトルには「信仰の根拠を示す」と書かれているのに、この本がきちんと示しているのはせいぜい「神の存在を完全に反証することは不可能」程度。良心の存在は進化論で説明できるし、人間原理は宇宙のあり方について完全に満足がいく説明をしているとは思えないけれども数学的に想像可能なだけ「創造神」を想定するよりは分かりやすい。「科学は生きる意味を解明できない」と言われても、宗教ならそれが解明できるとも思えない(せいぜい何らかの思い込みを持つことができるだけだ)。「神の存在を完全に反証することは不可能」くらいであればドーキンスだって同意するはずで、何も言っていないのと同じ。
ちなみに、日本ではキリスト教関係の書籍を多数翻訳している中村佐知・中村昇両氏による翻訳で、近いうちにこの本が出るらしい。