性暴力被害者を「無条件で保護する」文化は成立しているか

メールマガジンJapan Mail Mediaのサイトに、バックナンバーとして冷泉彰彦さんの記事「CBS女性記者襲撃事件とアメリカ的フェニミズム」が掲載されている。サイトに掲載されたのは先週だが、わたしはこの記事が某秘密主義MLで紹介された時に読んでおり、それに対してML内でコメントを書いていたのだが、JMMのサイトにも掲載されたのでわたしのコメントを以下に転載する。

まず二番目の問題ですが、まずこの異常なニュースが報道された背景にあるのは、性的暴力の被害者は徹底的に救済・保護するという文化が確立しているということが挙げられます。(中略)この時期からは女性をほぼ無条件で保護する権利が確定しています。判例というだけでなく、社会的な価値観としても明らかです。

そんな文化が確立していれば良いのですが、それはないでしょう。ローガンさんは、そういう文化を確立するのに貢献するため、問題提起するために、あえて普通なら公開されない被害の事実を勇気を出して公開したのであって、すでにそういう文化が確立しているからと気軽に公表したわけではありません。
そもそも、この件がそれだけ話題になり、ローガンさんの勇気がたたえられている(そして、ローガンさんに対する中傷発言が激しく反発をされている)ということが、ローガンさんの行為が「社会的な価値観」を揺るがすものであることを示しています。たとえば男性ニュースアンカーのアンダーソン・クーパーが暴行を受けた件については、勇気を出して公表したと褒める人もいなければ、かれに対して失礼なジョークを言うのもタブーではありません。
筆者は、

勿論、実名での告白を自動的に強制するとか、実名を晒すということは今でも厳格に否定されていますが、本人の自由意志で過去の被害経験を告白することがメンタルな問題解決に役立つのであれば、周囲はそれを受容しなくてはならないし、まして嘲笑したり、疎遠な感じを持ったりすることは近親者であっても厳しく禁じられる、そんな文化が確立しているのです。

と書いていますが、それが「厳しく禁じられる」のは、性暴力被害を公言することが、いまだにタブーだからです。もしほかの犯罪被害と同じように、被害者の「落ち度」が責められるのでもなく、被害者の恥だとか貞操の問題だとかして扱われるのでなければ、ほかの犯罪被害者と同じ程度には(アンダーソン・クーパーに対して「話題作りになって良かったな」と揶揄する人がいて、それが悪趣味だと思われつつも特に反発を浴びない程度には)許容されるはずです。そうでないのは、いまだに性暴力に関して、ほかの暴力や犯罪行為とは別格の、なにか被害者本人の資質や人格にとって汚点となるようなものだとして見る「社会的価値観」が温存されているからです。
すなわち、性暴力の被害者を嘲笑することがことさら咎められるのは、性暴力は特殊な犯罪だという価値観と裏表です。もちろんいまの社会において性暴力が特殊な犯罪として扱われているのは事実なので、ことさら咎める(そうしたものからことさら被害者を保護しようとする)のは悪いことではないでしょう。しかしそれは、被害者保護が社会的価値観として定着しているからではなく、逆にそうした価値観が不十分だからこそ、要請されるものです。もしほんとうに性暴力被害の告発がタブーではない世の中になったならば、クーパーの被害の扱いとローガンさんの被害の扱いは、「程度の違い」程度の問題に落ち着くのではないでしょうか。