批判対象と同じ問題を抱えた「極論としてのフェミニズム批判」

khideaki さんの「フェミニズムのうさんくささ」という文章をきっかけにいくつかのブログで反論があがっている件についていくつかコメント。これまでの議論の経緯はここで全部示さないけれど、トラックバックをたどれば分かるはず。


ポイント1:「極論としてのフェミニズム」批判の無意味


khideaki さんは、フェミニズムは基本的には正しいとした上で、このように言う。

たとえ善意から出発したフェミニズムであろうとも、それが極論にまで達すれば論理的には間違えるというところに僕はうさんくささを見る。

 わたしからみると、うさんくさいのはむしろ「善意」をやみくもに肯定してしまうことであり、「極論にまで達すれば論理的に間違える」ことではない。だって、「極論にまで達しても間違えない」思想なんてあるわけがないもの。もし「極論としてのフェミニズム」の問題を批判するのであれば、フェミニズムが他の思想や運動と比べて特に「極論」に走りやすい理由や、その実例を挙げて批判するのでなければ意味がない。
 khideaki さんが「極論としてのフェミニズムが到達する可能性のある誤謬」とは、「差異があることを、その現象だけで不当な差別だと考える一面的な論理的誤り」らしい。確かに、差異があるというだけで不当な差別だと考えているのだとしたら、それはおかしいだろう。けれども、かれはそういう「極論としてのフェミニズム」が実際に存在することを一切示してはいない。ただ単に、個別の事例について男女の区別を付けることに異議を唱えるフェミニスト(もしくはその他の人たち)の存在を示しているだけだ。
 それら個別の例についてはさまざまな意見があるだろうし、フェミニズムの中でも一致してこうだという見解があるわけでもないはずであり、まさしくかれの言う通り個別にその是非を論じれば良いはず。「差異があるのは、すべて男性優位の思想の表現である」というのは極論であるという khideaki さんの主張のは正しいが、同じく「差異に異議を唱えるのは、すべて極論である」というわけではない。極論を批判すると言いながら、逆の極論に陥っていないか。
 「すべての根拠を男性優位の社会構造に還元すべきではない」という批判だって、本当にフェミニズムの一部もしくは全体が「すべての根拠を男性優位の社会構造に還元」しているのかどうかという検証を欠いていて、単なる思い込みでしかない。実際のところを言えば、すべての問題を男女差別に還元する主張は70年代のラディカルフェミニズムにおいて存在したけれども、いまではそれは完全な間違いだったとする認識が一般的だ。


ポイント2:デマと事実の区別をしない批判


khideaki さんが「極論としてのフェミニズム」の例として挙げている中には、事実だが極論とまでは言えないような例(名簿を男女混合にする、など)とは別に、到底事実とは言えないものも混ざっている。例えば、かれは石原慎太郎東京都知事の発言のうち「男らしさ、女らしさを差別につながるものとして否定したり、ひな祭りやこいのぼりといった伝統文化まで拒否する極端でグロテスクな主張が見受けられる」という部分を引き、それが「正当なもの」だと言っているが、実際に「ひな祭りやこいのぼりといった伝統文化まで拒否する極端でグロテスクな主張」がどこにあるというのか。間違った前提に対して正しい判断をしていたとしても、発言自体が「正当なもの」であるとは言えない。
 例えば、「朝鮮半島を再び植民地化せよと主張する石原知事はグロテスクな帝国主義者である」と言う人がいたとしよう。もし知事がそのような事を実際に言っていたとすれば、この批判は確かに「正当なもの」と認められるだろう。しかし、実際に知事がそのような発言をしたという話は聞かない。事実でないことを根拠に相手をおとしめるような批判は、かりにその論理が内部的に正しくても「正当なもの」とは言えないはずだ。
 khideaki さんともあろう人にそれだけのことが分からないはずはないので、おそらくかれは一部の保守派のデマに騙されて「グロテスクなジェンダーフリーの主張」が実際に存在すると思い込んでいるのであろう。それが間違いであることは、例えば「ジェンダーフリーとは」やそこからリンクされている様々なページを読めば分かるはずなので、参考にしていただきたい。
 khideaki さんはさらに、「もし自分の主張がまともなフェミニズムだと思うのなら、僕の批判などは、極論としてのフェミニズムを批判したものなのだから、それと自分とは違うと言ってしまえばそれですむのではないかと思う」と言っているけれども、「フェミニズムのうさんくささ」という題を付けている以上は批判の対象(架空の存在なんですが)以外のフェミニストから反発されて当然だ。また、「フェミニズムの中の、こういう主張をしている一派に対する批判」として解釈しようにも、そのような一派がそもそも存在しない架空の存在というか早く言えば悪意あるデマの受け売りでしかないわけで、フェミニズムそのものの評判を傷つけるための発言ではないかと思われても仕方がない。


ポイント3:知識不足による批判


khideaki さんは、rossmann さんの「フェミニズムの歴史もなんにも知らないことが分かる文章だ」という批判に対して、自分は「個別的な知識について何か言及」しているのではなくフェミニズムが陥りかねない論理的誤謬について言及しているのだから的外れだと反論している。論理的にそういう危険があるという点については、ありとあらゆる思想にそういう危険はあるわけで一般論として間違いではないけれども、わたしもやはり khideaki さんの批判は知識不足でなければありえないものだと感じる。
 具体的にどういう知識が欠けているか。khideaki さんは、フェミニズムとはことさら性別による差異を敵視するものだと考えていて、それが行き過ぎることを懸念している。しかし現実には、フェミニズム内部で差異の解消が大々的に主張されていたのはかなり昔の話であり、差異の解消よりはむしろ差異の承認を迫る理論もたくさん存在することを khideaki さんは知らないのではないか。事実、それら両者のうちどちらか一方を「極論」になるまで押し進めるというのではなく、矛盾をはらむ双方の路線がフェミニズムという運動の中だけでなく一人の活動家や理論家の中でも葛藤しながら共存していることが、現代フェミニズムに深みをもたらしているとわたしは評価する。どちらか一方だけ取り出して極限まで押し進めればおかしなことになると言われても、そんな批判は現実のフェミニズムには一切当てはまらない空想でしかないと言うほかない。
 あるいは、企業や大学によるセクハラへの取り組みに問題があるとして、それをフェミニズムの責任にする前に、実際にフェミニストたちがどのような取り組みを主張しているのか khideaki さんは調べたことがあるのだろうか。このことは別のエントリにするつもりだけれども、企業や大学がセクハラへの取り組みとして行っていることの多くは単なる事なかれ主義による保身的対応であり、必ずしもフェミニストが主張してきた通りの真摯な取り組みではない。さらに言うなら、男女共同参画政策として行われることはフェミニストの主張そのままではなく、政治家や行政のフィルタを通したものであり、役所の権限や予算を拡大するための小道具になっている面もある。そういうネゴシエーションにおいて誰が何を主張しているのかという具体的な事実を見ずに全ての責任をフェミニズムに押し付けるのは間違いであり、知識不足だと批判されて当然だ。


結論


khideaki さんは、理念的に「極論としてのフェミニズム」について批判したりあるいは運動論の面からそれが余計な反発を呼び起こす危険を懸念するのではなく、ブログでも書籍でも良いので具体的におかしなフェミニズムの主張を見つけて批判してみてはどうかと思う。いくら「フェミニズム全体を批判しているわけではない」と言っても、そういった個別の例を挙げずにイメージとして頭に描いた「極論としてのフェミニズム」を批判するという姿勢は、批判の対象とする範囲が厳密でないという点で、「極論としてのフェミニズム」信奉者のふるまいとそれほど違わない。個別の現象についての批判であれば、それが「差別の例」であれ「フェミニズムの過剰の例」であれ具体的に是非が検証できるので歓迎したいと思う。

ひとつ聞きたい

 フェミニズムについてわざわざデマを挙げて批判したり、極限まで行けば危険だといったりする人が絶えないですが、そんなに現実の「おかしなフェミ」を見つけるのは難しいですか? バカなフェミがそこら中に転がっていて非常にウザイんですが、どうしてそういう連中に的確な批判をビシッとしてやってくれないの? 保守でもなんでもいいから、空想上のフェミ叩きよりも実在のバカフェミ叩いた方がずっと社会のためになるし精神衛生上おススメできますよー。

「行き過ぎた」のはいったいどちらか

続きになるけれど、khideaki さんの「行き過ぎたフェミニズム批判としての『フェミニズムの害毒』」について。
 まず、善意から出発したはずの思想が自己目的化して暴走することを懸念しているはずの kideaki さんが、こともあろうに「家族を守る」というまっとうな「善意」から出発してフェミニズム全否定という全体命題に到達してしまった林道義氏の主張を「行き過ぎたフェミニズムの害毒」として読めば良い、みたいに救済してしまうのは、一貫性に欠けるように思う。フェミニズムの「行き過ぎ」にイデオロギー的に反対するのではなくその「行き過ぎ」を理由に批判するのであれば、「反フェミニズム」の「行き過ぎ」も同様に批判するのが筋ではないだろうか。
 khideaki さんは言う。

実際にはフェミニズムというのは、その論理構造からいって、常に行き過ぎる可能性をはらんでいるのである。だから、行き過ぎに注意していないと、うっかり失敗することが必ずある。

 別の記事のコメント欄にも書いたけれど、フェミニズムに限らず思想や運動というのは常に行き過ぎる可能性をはらんでいる。khideaki さんはまるで何かフェミニズムに特有の「論理構造」があって、そのため「行き過ぎる可能性」が生じているかのような書き方をしているけれど、そんな危険は左右を問わずどんな思想にだってあるに決まってる。保守的な思想の例を出すと、「愛国主義」でも「敬老の精神」でも「法律の尊重」でも、極端に突き詰めれば問題が起きることが容易に想像できるはず。だからこそ、あらゆる運動は内部や外部からの批判に常に晒されることが必要なわけであって、フェミニズム内部の議論や相互批判の苛烈さを考えると特にフェミニズムに暴走の危険が高いということはまずありえない。
 極端な話をするなら、わたしは人は誰でも暴力をふるってしまう危険があると思うし、下手すると殺人をおかしてしまう可能性だって全くゼロだとは言い切れないと思う。かといって、特定の個人に向かって「お前は殺人犯予備軍だ」と決めつけた批判をするのであれば、その人が特に暴力的な傾向を持っていることを示す必要がないですか? そういう事実がないのであれば、その特定の個人についてではなく、一般論として言わなければいけない。一般論として言うべきことを、特定の人名を挙げて「あの人が殺人を犯す危険がある」と言えば、その人から「いわれのない中傷だ」と反発されて当たり前でしょ。その場合、その人は「自分だけは絶対に殺人を犯すわけがない」と言っているわけじゃなくて、「自分の名前をそこで挙げるのは不当だ」と言っているわけ。それだけのことが khideaki さんには分からないらしい。
 かれは、以下のような内田樹さんの発言を引用している。

「だから、フェミニズムが近代的システムの硬直性や停滞性を批判する対抗イデオロギーであるかぎり、近代文明に対する一種の「野性」の側からの反攻であるかぎり、それは社会の活性化にとって有用であると私は思っている。だが、有用ではありうるが、それは決して支配的なイデオロギーになってはならない質のものである。(ヒッピー・ムーヴメントや毛沢東思想やポルポト主義が支配的なイデオロギーになってはならないのと同じ意味で。)それは「異議申し立て」としてのみ有益であり、公認の、権力的なイデオロギーになったときにきわめて有害なものに転化する、そのようなイデオロギーである。」

 これも、フェミニズムに限らずあらゆる思想や運動について言えることではないのか。「支配的なイデオロギー」という言葉がどういう意味で使われているのかはっきりとは分からないが、イデオロギーが権力と結びついて反論や懐疑も許さないような状態になることが「きわめて有害」なのは当たり前のことだ。どんなに暴走しても(あるいは権力と結びついても)全く害がないようなイデオロギーなんて存在しないわけで、フェミニズムについて特にそうだと言うことに何ら意味はない。
 続けて、林道義氏ら「反フェミニズム」の論者の批判が、現実のフェミニズムではなく誤解されたフェミニズムについてのものだという指摘に対して khideaki さんはこう批判する。

ここで語られていることは本物のフェミニズムではないという意見もあるだろう。誤解されているのだというわけだ。しかし、本当に深刻なのは、フェミニズムを本当には知らない人間は、たいていこのように誤解するということなのだ。誤解しているだけだからフェミニズムには責任がないと簡単に済ませることは運動論的な間違いだと僕は思う。これが誤解であるなら、誤解であることを分かるように示すことこそが大事なことなのだ。誤解する方が悪いという姿勢は、運動論的に運動の弱体化をもたらすだけだ。それは、誤謬に対して鈍感な姿勢なのである。

 まず言いたいことは、論理的な議論に運動論的な反論を混ぜないで欲しい。運動論として誤解を説くためにどのような努力をすべきかということは別個に議論し得るけれども、その前にそれが誤解であること、そしてフェミニズムを正面から批判できないと観念したためか、わざとデマを広めているとしか思えない論者が存在することを確認してからにしないといけない(誤解が自然発生的なものなのか、それとも故意に事実を捩じ曲げている論者がいるのかという点は、運動論を考えるうえで必要なポイントだ)。khideaki さんが述べていることが事実でないと指摘されたのだから、事実でないということを受け入れるのであれば、「事実でないとしても運動論上の問題がある」などと言わずに、まず過去の発言を撤回することからはじめてはどうだろうか。
 そもそも、運動論というのはフェミニズムの目的を共有する人が勝手に考えれば良いわけで、もし khideaki さんがそうでないのであれば運動論的なアドバイスなどせずに放っておけば良いはず。運動論を誤ったためにフェミニズムが破滅したところで、khideaki さんに何の関係もないではないか。要するに、本来ならどうでもいいはずなのに、自分への批判を交わすためにその場しのぎに運動論に逃げているに過ぎない。
 日常的に見られる「フェミニズムの害毒」の例として、khideaki さんは林氏の著書から以下のエピソードを紹介している。

林さんの妻が女性だけの研究会に行ったとき、会が終わってから食事に誘われたらしい。その時「夫が待っているから」と断ったことに対して、「あなたは自立していないのねえ」とイヤミを言われたという。このとき、林さんは、「「夫のために早く帰る妻は自立していない」という公式を当然のように信じている女性たちがいると言うこと」に驚いていた。そして、これを「フェミニズムの悪影響のためである」と断じている。

 あのー、これって単なるイヤミでしょ? 本気で「あなたは自立していない、ちゃんと自立して夫のために早く帰るなんてことはやめなさい」と言われたわけじゃないんでしょ? フェミニズムの悪影響と言うよりは、フェミニズム(っぽい言説)をネタとしておどけているだけなんじゃないかと思うわけですが… こんなのが「フェミニズムの悪影響」の例として出て来るところからして、さすが林道義という感じですね。
 ところが、khideaki さんもこのようなネタ的コミュニケーションをベタに受け取ってこう言う。

これに対して、その女性研究者はフェミニストではないとか、間違ったフェミニズムを基礎にして考えているから誤解するのだといっても、林さんはおそらく納得しないだろう。もちろん、林さんを納得させる必要はないと思っているフェミニストがいたら、ここから先の議論は必要ない。林さんのような保守主義のオヤジなどは、頑固頭の分からず屋だから、そんなオヤジが何を思おうと関係ない、というフェミニストだったら何も議論する必要はない。
 そう言うフェミニストには、勝手におまえらの運動をしろよ、というだけだ。相手のことを自分たちが理解する必要がないと思っている人間を、こちらから理解してやろうという優しさを見せるほど僕は人間が出来ていない。フェミニストがそう言う姿勢を持っているなら、やはりフェミニズムはうさんくさいものであり、決して社会の主流になってはいけないイデオロギーだという内田さんの主張を支持したい気持ちになるだけだ。

 いかなる事実や論理をもってしても林道義さん個人を納得させることができるとは到底思えないけれども、「保守主義のオヤジ」の中には説得できる相手だっていると思うし、どんどん説得するべきだと個人的には思う。でもそれは運動論だから、フェミニズムに何らコミットしていない人が指図するような問題ではない(批判するのはアリだけれど、善導的に「こうした方が良い」的なアドバイスを送る立場にはいない)。

林さんのようなオヤジを受け入れることは、フェミニズムにとっては損なことのように見えるかも知れないが、そうすることによってフェミニズムは確実な真理性を手に入れることが出来るのだ。受け入れるというのは、何も主張に賛成しろということではない。林さんの批判は、対象が「行き過ぎたフェミニズム」に限定される限りでは正しいのである。その正しさを受け入れるべきだということだ。

 この主張は、まったく倒錯している。「行き過ぎたフェミニズム」の個別の実例をあげてそれを批判するというのであれば、フェミニズム内部でも頻繁に行われているし、全く何の問題もない。そういった批判自体を拒絶したり感情的に反発するフェミニストだってほとんどいない。けれども、かれやその他の「反フェミニズム論客」による「フェミニズム批判」は、現実にはありもしないものをでっちあげたうえで、あるいはかなり特殊で一般化できないような実例を上げて、それを根拠にフェミニズム全体を否定するものだ。そのような論法のどこに「正しさ」を見出せば良いと言うのか。先に「論理の正しさは、前提となる事実の正しさを示さない」と指摘したけれど、林氏や八木秀次氏らの「フェミニズム批判」は論理も事実も間違いだらけなのだ。
 もちろん、だからといって本全体丸ごと間違いだらけということはないわけで、中には正しい指摘だって少しはあるだろう。それを認めるということを、フェミニストが拒否するとは思えない。例えば、林氏によるフェミニズム批判の一つに「フェミニズムは『働けイデオロギー』に乗せられて、女性を職場に追いやっている」というものがあるが、フェミニズムの一部にそのような傾向があったことはフェミニズム内部からさんざん批判がなされている。林氏の記述は、フェミニズムが内部にそうした豊かな対話と対論の歴史を持つことを無視し、また弊害はあるとはいえ「働けイデオロギー」的なものを掲げざるを得なかった固有の事情を無視し、一方的に「フェミニズムはこうだ」と決めつけ断罪するものだから批判されているわけであり、もしかれの主張が「働けイデオロギー盲信はよくないよね」というだけであれば誰も反発したりはしない。


最後に、セクハラ論議について。khideaki さんは、「セクハラ論議のおかしさは、フェミニストたちはまったく疑問を感じないのだろうか」と言う。疑問どころか、おかしいと思うからわたしは積極的に是正を呼びかけている。しかし、世間に流布している「セクハラ論議」全ての責任をフェミニズムに押し付けるのも、まるでセクハラ騒動の責任を被害を訴えた人に押し付けるようなものであり、不当だと思う。セクハラという問題を最初に訴えたのがフェミニストだったとはいえ、セクハラについて発言しているのはフェミニストだけではない。誤解されるのもフェミニストの責任だというが、それはフェミニストにも「主張を誤解されないように気をつける責任」「誤解をできるだけ解消するような責任」という道義的な(あるいは運動論上の)責任がある(そして、かれらはそれを果たそうと日々努力している)というだけで、誤解そのものの責任は間違った情報を伝えたり広めた人たちにある。
 この点については後日別のエントリで書こうと思っているけれど、ひとつ覚えておいてもらいたいのは、セクハラの被害者や潜在的被害者の利害と、企業や大学の利害は違うという点だ。また、社員や学生は潜在的な被害者であるとともに、潜在的な加害容疑者でもあり得るから、一方的に被害者だけに有利な制度を望むわけでもない。そういったさまざまな利害のバランスの中で企業や大学はセクハラ対策を決めるわけであり、必ずしもフェミニストが望む通りの取り組みが実現しているわけではない。というより、多くの場合それは企業や大学の事なかれ主義や、担当者の保身によって歪んでしまう。
 khideaki さんが例にあげている筆坂秀世さんの件について言うならば、真実はわたしにも分からないとはいえ、日本共産党という集団の利害が優先された結果あのような結末になったんでしょ。当然、フェミニストとしては疑問に思いますよ。もしセクハラが事実でないのであれば、党内闘争の結果失脚したことを隠蔽するためにセクハラ疑惑がうまく利用されてしまったのかもしれないわけで、セクハラに真面目に取り組んでいる人から見れば迷惑な話だし、もしセクハラが事実であったとするなら後に著作で誤摩化したりできないように徹底的に事実を解明してほしかった。事実関係の解明もなく、とにかく議員辞職させて幕引きしちゃおうというのは、とにかく否定して無かったことにしちゃおうというのと全く同じ「事なかれ主義」「組織防衛」であって、フェミニストが求めて来た取り組みとは全く違う。それについて日本共産党を批判するならまだしも、フェミニストの責任にされてしまっては困るわけで。

ぶるっくなー救済計画(倒れ?)3

khideaki さんに構っているうちに、Bruckner05 さんが新たな記事を載せている。「大沢・上野・デルフィ説」などと言って、自分に理解できないものを勝手にごちゃ混ぜにしたりしているけれど、それはともかくわたしが以前「ジェンダーがセックスを規定する」という記述について、

これは簡単な話で、要するに「あなたがセックスだと思っているものは身体そのものではなく、文化的・社会的なレンズを通して見た、身体についてのひとつの解釈ですよ」というだけの話。こんな当たり前のことが、どうして「狂気のジェンダー論」になるのか。

書いたことについて、「当たり前」というのはおかしいと反論している。

大沢真理氏も上野千鶴子氏も、この説を、それまでの常識を覆す新しいジェンダー論として紹介し、「ジェンダー論の90年代前半の到達水準」とか「ポスト構造主義の到達点」などと書いている。ふつう、常識を覆して提示された学説を「当たり前」とは言わない。それまでの常識こそが「当たり前」なのだから。
 もちろん、新説が世間に受け入れられ、定説になれば、その時点で「当たり前」になるのは理解できるが、「狂人の発想」という学者もいれば(渡部昇一氏、『男は男らしく、女は女らしく』)、「大きな間違い」(長谷川眞理子氏、「WEDGE」06年1月号)とか、なんじゃこれ?と首をひねる学者(大隅典子氏)までいる現状では、とても世間に受け入れられたとは言えない。
(略)
 だいたい、大沢説を礼賛している学者たちは、(当人も含めて)「簡単な話」とは思ってないはずだ。思ってないからこそ、新説の妥当性の根拠として、ジェンダー論の最新学説(デルフィ)やら分子生物学やら性科学やらを挙げ、学術的、自然科学的な裏付けがあると強調しているのだ。本当に「簡単な話」なら、そんな権威を持ち出す必要はない。
 「ジェンダーがセックスを規定する」なんてのは突拍子もない考えなのだから、「簡単な話」「当たり前」と開き直るよりは、正直に「驚天動地」とか「コペルニクス的大転換」とか言ってくれた方がまだ可愛気がある。

 これに対する反論は、一言で足りる。「当たり前のことだけれど、当時の認識では大発見だったんだよ」。地動説だって、当時は「大転換」だったけどいまでは「当たり前のこと」でしょ。
 Bruckner05 さんは世間が受け入れていないではないかと言うけれども、専門外の学者はともかく女性学やジェンダー理論・クィア理論など関連領域の研究者のあいだでは(どころか、それらの分野を専攻している学生レベルでも)常識となっている認識ですよ。とはいえ、わたしが「当たり前」と言ったのはそれが専門分野内で受け入れられた定説であるからではなくて、論理的な明晰さを指して「当たり前のこと」だと言ったからなので、「受け入れていない(専門外の)人もいる」というのはどちらにしても的外れな批判だけどね。
 もう1つ Bruckner05 さんが批判しているのは、わたしの以下の発言だ。

というかね、「ジェンダーがセックスを規定する」なんて話、はっきり言って分からなくて構わないの。だって、そんなことはジェンダー論を学んでいる人が分かっていれば良いことで、直接ジェンダーフリー周辺の議論とは関係ないもの。

 この部分は、エリート主義的だとか、ジェンダー論というのはそんなに役に立たない学問なのかと批判されることは想定していたけれど(そして、それらに対する反論の準備はしていたけれど)、Bruckner05 さんの批判はそれとは違って、以下の通りだ。

macska女史のこの言い分には妥当性がない。一部の専門家しか理解できず、社会的合意のない概念を、全国民に深甚な影響を及ぼす基本法に盛り込み(しかもこっそりと)、制定当時に賛成した国会議員ですら、そんな意味があるとは知らなかったとこぼす(当時の法相、森山真弓氏)、審議会委員も事務局の官僚ですら何が何だかわからないうちに答申が出され、それに基づいて法案ができてしまう、こんな非民主主義的で権威主義的な手法(由らしむべし、知らしむべからず)こそが、今日の混乱を招いたのだ。
本来なら、ジェンダージェンダーフリーの概念について、誰にでもその意味がわかるようにきちんと説明すべきだった。「性別概念に関する天動説から地動説への転換ぐらいの認識革命が起こった」とか、男女特性論を排除したとか、そういうことは、基本法案を議論し、審議する際に、広く周知すべき情報だったのに、推進側はそれをやらなかった。

 説明をもっとするべきだったということは、まったくその通り。もっとちゃんとした説明をしておけば、いまになって Bruckner05 さんみたいな人がおかしな言いがかりをつけてくることもなかったかもしれないものね。でもそれは、「ジェンダーがセックスを規定する」という部分を説明するべきだったということにはならない。というのも、「ジェンダーフリー」というときの「ジェンダー」とは、「セックスを規定する」ジェンダーではなく、もっと通俗的な「社会的・文化的な性別」という意味の「ジェンダー」だからね。行政では「社会的・文化的な性別」という意味でジェンダーという言葉を使っているのに、わざわざ「ジェンダーがセックスを規定する」という話をしだしたら混乱を招くのは目に見えているからこそ、わたしは「そんな話はジェンダーフリーの議論とは関係がないから、研究者だけが理解しておけばいい」と言ったわけ。
 要するに、ジェンダーフリーの議論で前提とされている「ジェンダー」は、学問的なレベルで前提とされている「ジェンダー」と同じではないわけです。「セックスを規定する」のは後者に属する話であって、前者の議論と混同するべきではない。混同しちゃった人がいるから、「その意味は反ジェンフリ派が曲解して言う意味とは違い、実際にはこうですよ」と簡単に説明すると同時に、「でも研究者以外には関係のない話ですけどね」と付け加えたわけです。
 まぁそんな混乱を招いた原因の一つに、大沢さんの中途半端な発言の数々があるというのは事実。だから、その点について「お前のせいで誤解して、変なことを言ってしまったぞ」と彼女を批判するならご自由に。でも、誤解していた点は受け入れて、今後おかしな言いがかりを言い続けるのはやめてね。こんなに丁寧に説明しているのに分からないと言うなら、もうあなたの頭脳のレベルを疑うよ。
 これ以外の部分は、全部これまでと何ら変わらない陰謀論とか被害妄想だけなのでスルーします。

これで通じないなら、もう論理を口にしないで欲しいと思う

今日はやたらと書きまくっているけれども、khideaki さんが chiki さんからの批判に応える中で、はじめてフェミニズムに特有の「暴走性」を特定のフェミニズム解釈に依存しない形で示している。すなわち、

他の思想と比べてということでいえば、同じように逸脱した思想としてのマルクシズムとの相似性を感じている。虐げられ、不当に抑圧されているというルサンチマンが、逸脱する可能性をはらんでいる。

 ということらしい。なるほど、ルサンチマンは思想が暴走を起こすひとつの要因にはなるだろう。
 でも、それを言うなら「反フェミニズム」だって「嫌韓派」だって、自らを(「フェミナチ」や韓国ナショナリズムの)「被害者」として位置づけて暴走しまくっているわけで、フェミニズムのようないわゆる「社会的弱者」の側の思想だけが暴走するわけでもない。ルサンチマンを燃料に暴走することにかけては、保守系の思想だって同じだ。というわけで、再びここで、本来ならば思想一般に当てはまるはずの問題にことさらにフェミニズムという個別の名前をあげて批判対象とすること、そしてその批判が成り立つ証左としてデマとしか言えないような例を挙げることのパフォーマティヴな政治性が問われることになる。
 ここであえて好意的に解釈するなら、それら「勝手に被害妄想を起こしているだけの自称被害者」と違い、女性は「本当に被害を受けている」ために、よりルサンチマンが暴走に直結しやすい、という反論が考えられる(笑) けれども、もしそうだとしたら、暴走を取り除くためにはただ単に「フェミニズムは暴走性がある」と言うことよりも、具体的な施策を通してそういう「本当の被害」を取り除いていくことを優先すべきではないか。
 フェミニストが暴走することはないのかと言われれば、もちろんあるに決まっている。けれども、暴走したフェミニストに対しては真っ先に他のフェミニストから批判がある。例えば、保守派と組んでポルノグラフィ規制を掲げたフェミニストたちがいたが、かれらに最も激しく抵抗したのは他のフェミニストたちだった。
 ある思想が暴走する危険に対する歯止めは、論理的な誤謬のありえなさ(どんなに極端にしても問題が起きないような論理的な完璧さ)に求められるものではなく、意見の多様性やそれに対する寛容さを育むことで担保されるものではないだろうか。そういった要素を考えるなら、フェミニズムという思想はその豊かな多様性のために、他のさまざまな政治思想と比べてむしろ暴走の危険性は低いとわたしは感じる。